少し遠方にある、幸村が入院する病院へとらが到着した後。
 彼らは、屋上に集まっていた。
 幸村の病室を尋ねてすぐ、世間話もないままが『話がある』と言ったので、四人は場所を屋上へと移動した。
 そして、そこで告げられたの台詞に、真田は自分の耳を疑う。
「…なんだと……?」
 余りに簡潔で、唐突に告げられた言葉が信じられなく、彼は驚きの表情さえ作れないでいた。
 それはベンチに座っていた幸村も同じで、フェンス前に立って街並を見下ろしているに、身を乗り出すように問う。
「…、それホントなの?」
「うん。転校するコトになっちゃった」
 フェンスの金網を片手で掴んだまま、は振り返って答える。その表情はいつもと変わらない穏やかな微笑み。
 それが本当に呆気ない告白だったものだから、真田と幸村は次の言葉がなかなか出てこなかった。そして柳は一人、の隣りでフェンス側を向いたまま黙っている。
「いつなんだ…?」
 真田がやっとの思いで口にした質問に、は彼らに向き直って答える。
「来週だよ」
「それは…また、急な話だね」
「うん。ホントに急で、私もびっくり…………でも、」
 淋しそうな表情の幸村に、は相変わらず笑顔で答えるが、その後に声と視線を落として言った。
「覚悟してたことだから」
 あの両親の、娘でいる限り――
 内心でそう呟き、は顔を上げて続ける。
「と言うより、決意に近いかな?ほら、私の両親って仕事の都合で転勤が多いから……本当は、テニスなんて出来ないんだけど、私のわがままで続けさせて貰ってる――だから決めてるの。絶対、あの二人について行くって」
 彼女は一体その小さな身体にどれ程までに深く、強い意志を持っているのか、と思わせる揺るぎない瞳と声で彼らに告げる。
 小さい頃からが転校を繰り返していることは、真田達も知っていた。短い時には、一年もいなかったこともあったそうだ。
 だから彼らも、この事態は予測して覚悟もしていた、筈だった。
 けれど今・その時になって認められない自分がいる。それ程、彼らの中での存在は大きなモノとなっていた。
 再び続く沈黙には少し苦笑して、またフェンスの方へ振り返り柳の隣りに並ぶ。
「……ココも、最初は一年いるか判らないって言われてたけど、二年もいたのね、私」
 街を見下ろして懐かしむを柳が横目で見た時の表情は、とても物憂げだった。
 彼女が今どんな心境で想いに馳せているのか、窺い知ることは出来なかった。ただ、真田達に背を向けているからか、表情は少し悲しそうに見えた。
 今日、何度目かの沈黙が辺りを満たす。
 その所為か、彼らの間に流れる風はおろか、刻すらも緩慢なものに感じられた。
 まるでここだけ世界から取り残されたかのように…――それが、の決定を覆せないのだと、物語っているようだった。
「本当に、転校するんだな…」
 引き留めたい思いを押し殺すように、真田がの背に硬い声で呟く。彼女は黙って振り返った。
 表面上はいつもと変わらなかったが、はすぐ彼の様子に気付いて真剣な表情で答える。
「そうよ。だからケジメをつける為にも、君に試合を申し込んだの」
「え?真田と試合したの?」
「うん。7‐6で私の勝ち」
 の言葉を聞いて意外そうに訊いてきた幸村に、は笑顔に戻って言う。
「へぇ……それは、見てみたかったな」
 嬉しそうに笑う彼女に幸村も笑って、けれど残念そうに微笑んだ。それを見て、だけでなく真田や柳は胸を痛める。
 幸村は今、重い病気にかかっている。
 今は寝込む程のものではないが、今後悪化しないとも限らないし、身体的なものだから激しい運動は出来ない――テニスが出来ないのだ。
 そんな彼の前で試合のことを話すなど軽率だ、とは自分を呪った。
 況してや『出来れば、幸村とも試合がしたかった』と、言いそうになった自分が恥ずかしい。確かにの転校は辛いことではあるが、幸村とは辛さの重みが遙かに違うのだから。
 決して表情には出していなかったが、幸村は彼らの沈黙の意味が判らない訳ではなかった。それでも、彼は意を介さず言葉を続ける。
「僕も、と試合してみたかったな」
 呆気なく告げられた言葉に、は驚きの余り幸村を凝視してしまった。まるで、自分の心を看破された気分だ。
 けれど向けられる穏やかな笑顔には何も言えなくなり、悔しいような嬉しいような、なんとも複雑な苦笑いになっていた。それは却って彼を安堵させる。
 幸村はこのの困ったような苦笑が、一番好きだった。
「そういえば、テニス部の方はどうするの?」
「大丈夫。もう部の方には伝えてあるから」
「お前はそれでいいのか?後悔は…」
「――無いわ。これはもう、私にとって当たり前なことなの。だから今まで、そんなモノ出来ないように生きてきた」
 何も変わらないように言う彼女に真田が訊こうとするが、今度は冷然とした表情と硬質な声で遮られる。それは、が彼らの前でなら見せられる、本来の姿。
 "後悔なんて、しないように"。
 転校を繰り返す彼女は、そうやって今まで生きてきた。
 どうせ離れてしまうのなら深く関わらない方がいい。自分が、傷付かない為にも――そう、してきた筈だった。
 けれど今、はここに来て頭では割り切っているのに、胸の奥を支配する違和感に気付く。
 いつもなら妙にスッキリした気分で、次の街へ移っているのに。
 この胸を締め付けるモノは何なのだろうか。
 正体の判らない感情に、は思わず胸の辺りの服を鷲掴む。
 そして顔を上げると、目の前には二年間を共に過ごした、いつもの仲間の顔があった。

 ――あぁ、そうか――

 そう思った時、懐かしくも暖かいモノが、の胸を満たす。
「でも……そうね」
 張り詰めていたものを溶かすような微笑みで、が呟く。
「皆と誓ったあの約束を果たせないことが、ちょっと心残り、かな?」
…」
 その微笑みはやはり淋しそうで、真田は無意識にを呼んだ。
 ――あの日、紅く染まる夕暮れの中。彼らと交わした約束。
 それまで他人と距離を置いていたが忘れていた――いや、忘れているつもりだった"誰かと一緒にいたい"という気持ちを彼らは思い出させてくれた。
 それによって今までオブラートに包んだように見えていた景色が、とても鮮やかなものに見えだした。
 あの時から、の世界は大きく、変革を遂げていったのだ。
 自分の中で彼らの存在がどれ程大きかったのか、今更ながらに思い知る。それと同時に募る不安。

 ……覚悟していた、筈なのに。

 己の決意の甘さに、は打ち拉がれる。次の言葉が出てこない。
 そう必死に悩んでいた時、不意に両腕を掴まれているのに気付き、思考を現実へと引き戻される。
 顔を上げると、目の前には幸村が立っていた。
 の両手を包み込むように握り、彼女を覗き込んでいる。そして優しい笑顔で言った。
「そうだね。じゃあ、また約束してくれないかな?」
「え?」
 穏やかに話す幸村の手は、とても温かかった。
「転校して、新しい学校に行ってもテニスを続けてくれないかな?出来れば、部活にも入って欲しい」
「幸村……」
「そこで今まで通り、全国を目指せばイイんだよ。僕達と同じようにね」
 幸村の手に力が籠もる。力強かったが、決して痛くはなかった。
 黙って見守る真田や柳も、恐らく同じ考えなのだろう。
 彼女はただ、幸村の顔を呆然と眺めるしかなかった。その表情には、驚きの色で満ちている。
 そしては彼に答える為、目を伏せてからゆっくりと開けながら告げる。
「うん…大丈夫よ。私も、そのつもりだったから」
 自分にとって、テニスは生き甲斐だったから。それを止めることは、息をしないことと同じだとは思っていた。
 けれど今はそれだけでなく、彼らは仲間と共にするテニスを教えてくれた。
 だから、それを大切にしたい。ただそう思った。
「そっか…ありがとう、
 彼女の言葉を聞き届けて、幸村は笑顔で両手を放した。それにも微笑むだけで答える。
 それから幸村の横に立つ真田に目を向けると、彼もまた少し笑っていた。
 そんな真田に苦笑しながら、は彼の前に立って素早く真田がいつも被っている黒い帽子を奪い取った。
「あっコラ」
 真田が慌てて取り返そうとするが、はヒラリと避けて無邪気に笑いながらその帽子を被ってみせる。
「やっぱり真田はそのままの方がカッコイイよ。ね、餞別代わりにこの帽子、私に頂戴?」
「駄目だ」
 可愛くおねだりしてみるが、寄って来た真田に帽子を取り上げられてしまう。
 ケチー、と駄々を捏ねる彼女に、真田は帽子を被りながら言った。
「それに餞別なら既にやっただろう」
「なーに言ってるのよ。真田、そのパワーリスト付けたままだったじゃない」
 彼の言う餞別とはつまり、今日の試合でが取った勝利のことだ。
 勿論、手を抜いていた訳ではないことは彼女も判っている。それでも納得いかないのは、真田が試合中に鉛が入ったパワーリストを付けていたことだ。
 いくら特訓の為、いつも付けていて慣れているといっても、多少なりともプレーに影響を及ぼす。
 そのことで必然的に手加減されていたんだとが拗ねている横で、真田は無言で今も付けているリストバンドを掴んでいた。
 二人のそんなやり取りを微笑ましく眺めていた幸村が、ふと思いあたって尋ねる。
「そういえば、。どこに転校するの?」
 未だに真田の服の裾を引っ張りながら文句を言っているが、彼の質問で微かに雰囲気を鋭いモノに変えたのを、三人はすぐに肌で感じた。
「東京よ。……東京の青春学園」
 愉しそうにが答えた学校名に、彼らは驚いた。
 青春学園といえば、東京で名の知れたテニスの名門校だ。何よりあそこには、彼らも一目置いている選手だっている。
 そして一番に声を上げたのは真田だった。その表情は強者が放つ、勝負に対する享楽の笑み。
「…それはまた、面白い事になりそうだな」
「でしょ?どんなトコなのか、私も今から愉しみで仕方ないわ」
 いつもより少し高い声の真田に、も普段とは全く違う、妖艶な微笑みで返す。
 そんな二人を遮るように、それまで黙って成り行きを見守り続けていた柳が、前に出て幸村に声をかける。
「幸村。そろそろ検診の時間じゃないか?」
「あ、そうだね。じゃあ僕は病室に戻るよ」
「俺も学校へ戻る」
 柳の呼びかけで幸村が屋上のドアへと向かうのに、真田も近くに置いてあった鞄を掴んで後に続く。
「えーもう帰っちゃうの?」
「当然だ。柳生に任せているとはいえ、奴らが真面目に練習をしているとは思えん」
 不満を漏らすに、彼は見向きもせずきっぱりと言い切った。けれど強ちハズレではないなから、も幸村もカラ笑いするしかなかった。
、向こうに行っても頑張ってね」
「うん。ありがとう、幸村」
 振り返った幸村には笑顔で手を軽く振る。その後に何かを思い出したような真田が立ち止まって、に声をかける。
。帽子はやれないが、これをやろう」
 言いながら真田は、自分の腕に付けているリストバンドを外す。それを見て、は怪訝そうな表情をした。
「それって、パワーリストでしょ?女の子の腕に筋肉付けさせる気ー?」
「いや…」
 少し怒った素振りで言うと、真田は外した片方のリストバンドを彼女へと投げ渡した。それは緩やかな放物線を描いて、の手の中へと収まる。
「それはただのリストバンドだ」
「――!」
 感じると思っていた重量感は全くなく、真田から投げ渡されたのは確かに黒い普通のリストバンドだった。
 驚いているには構わず、真田達は別れを告げて屋上を後にした。
 そして残ったのは、と柳二人のみ。
「…何よ、ソレ……」
 擦れるような声に、隣りにいた柳が振り向くと渡されたリストバンドを握り締めて俯くの姿。
「じゃあ私は知らない内に、全力の真田に勝ってたってコト…?」
 誰に言う訳でもなく、必死に平静を保とうとして呟くにこれだけは伝えるべきだと、柳は彼女から視線を逸らして言う。
「弦一郎も、本能でお前の何かの決意に気付いていたのだろう。だからそれに応えようとした」
 も、それは判っている。それは逆に嬉しかった。
 けれど口を衝いて出るのは悪態で、自分は本当に意地が悪いな、と頭の隅で思う。
「それじゃ…私、マヌケみたいじゃない……」
「…
 それでも溢れる衝動を押さえることは難しく、声が上擦っている。柳に呼ばれて、なんとか自分を取り戻して大きく深呼吸をした。けれど――
「大丈夫……けど少しだけ背中、貸してて」
 そう言って、はポスンっと柳の背に顔を埋めた。柳はそれに黙って、受け入れて彼女の好きなようにさせる。
 そのまま、二人は暫らく屋上の穏やかな風に吹かれていた。

 ――泣くことなんて、ないと思っていたのに…。

 声を上げることも身を震わせることもなかったが、は確かに涙を流していた。


 とても、静かに。





 END...




初出 04/09/27
編集 08/10/30