枯れ葉が舞い始めた、夕暮れ前の放課後。
 教室の窓側の席に座る仁王は、前で日誌を書くの手元を眺めていた。
「……何で君が私のクラスにいるの?」
 この状況から五分ほど経ってからの質問に、仁王は内心で苦笑しながら両腕を頭の後ろで組む。
「お前を待ってんだよ。別にイイだろ?誰も居ねぇんだし」
「…ま、それはイイけど」
 日直当番らしい彼女は、優等生らしく丁寧に今日の出来事を書いている。
 仁王はそれが終わるのを待っていた。というより時間潰しだ。部活はとっくに始まっているし、今から行くのも面倒だった。
 逆にの機嫌は表には出していないが、悪そうだった。
 きっと早く部活に行きたいのだろう。けれど根が真面目だから、仕事を放り出すことはしない。
 それが判るくらいには、二人は親しい仲だ。
 何も話さずにジッと手元を見ている彼に、はそこで溜め息を吐く。
「…見てても面白くないと思うけど」
「ま、見てるだけやからな」
 何だそれは、と言いたそうな彼女は目を伏せ、視線を開いている窓の外へと向けた。
 返事がないことに顔を上げると、そこにはどこか嬉しそうに外を眺めているに気付いて仁王が話しかける。
「……どうした?」
「いや、随分…―― 長くいるなと思って」
 まるで懐かしむように呟く彼女に、仁王も同じように窓の外を眺めた。
 視線を下に落とせば、校庭には部活動に励んでいる生徒達。その先に視線を向ければ街並みが見え、陽が落ちかけている空。
 その風景を、が何を思って見つめているのか、仁王にはなんとなく判った。
 彼女は余り自分のことを話す方ではないが、それでも転校が多かったことは親しい者なら知っている。
 がこの神奈川へと引っ越し、立海大付属中学に入学してから一年と半年が過ぎようとしていた。
 だから彼女の中でも思うことがあるのだろう。
 そう思いながら、仁王に浮かんだのはある疑問だった。
「お前がそーなったんは、転校が多かったからか?」
 外へ視線を向けたまま呟くと、が振り向く気配がした。
「そうなったって?」
「その、愛想笑いはいつから?」
 今度は振り向いて訊くと、は目を丸くした後に苦笑して頬杖をつく。
「…何?小さい頃はもっと明るかったと思ってるとか?」
「いや、お前が冷めてるのは元々じゃろ?」
「……良い勘で」
 あっさり言ってのける仁王に、は脱力しながら認める。
 黙って回答を待っていると、向き直って背伸びをするが首を捻る。
「そう言われても、私の愛想はいつのまにか身に付いたモノだしなぁ…」
「でもきっかけくらいあんだろ?」
 追求すると、「きっかけねぇ…」と呟きながら考え込む彼女は、やがて顔を上げた。
「……変わったって意味なら、アレかな?今の両親に引き取られてからのことだけど」
 そう言っては少し伏し目がちに、話し始めた。
「当時の私は、家族を失って何も手につかなくて話すのも億劫だった。…正に魂が抜けた死人みたいだったと思うわ」
 自分のことを自嘲めいて話す彼女に、仁王は黙って聞いていた。いつもの飄々した態度ではなく、感情の含まない表情はの目に入っていない。
 ただ、目前の机の日誌に視線は向けられている。
「それでも両親は優しくしてくれた。なのに私が心を開かないままで過ごしてる時に、両親の仕事の関係でお偉いさんと会うことがあったのよ」
「お前の顔見せを兼ねた挨拶、とか?」
「まぁそんな処だったと思うけど、でも私は挨拶も出来なかった……だから両親が責められてたの。――そりゃそうよね。無愛想な上に挨拶も出来ないなんて相手の反感を買うだけだし、子供となれば大人が責任を問われる」
 それまで皮肉げに話していた彼女は、一度言葉を切ってから表情を曇らせた。
 俯いてた顔をゆっくりと窓の外へ向けて力なく呟く。
「そこで思ったのよ。あぁ、私・この人達を困らせて何やってるんだろうって。折角、私を養ってくれてるのに迷惑を掛けちゃいけないって…」
「だから良い子を演じようって?」
 半分くらいは本気で仁王が訊いてみると、目を丸くしたが意地悪く微笑む。
「人聞きの悪いこと言わないでよ。私は元々優秀なの」
「どーだか」
 呆れながら目を逸らして外を見ると、校庭がよく見えた。テニス部のコートもよく見える。
 それを眺めて頭に浮かんだことが無意識に口に出る。
「……今の話、柳にはしたのか?」
「ううん。言ったことはないけど、何で?」
「いんや。それより日誌は書き終わったのか?」
 仁王に言われ、思い出した彼女は慌てて残りの項目を埋めていく。
 それを眺めながら仁王は少し満たされた気分だった。こんなことで感情が浮上するなんて、我ながら情けないな、そう思って頬杖をつく。
 暫らく見つめていると、開いた窓から流れる風での髪が靡く。
 サラサラとしたそれに惹かれ、仁王は手を伸ばして彼女の髪を掬い取る。
「…何?」
 その行動に然して驚かずに、上目遣いでは訊いた。
「髪、伸びたな」
「そうかな?そろそろ邪魔だから、切ろうとは思うけど…」
「――伸ばせよ」
 言い切る仁王に彼女は目を丸くして、フッと微笑って目を逸らす。
「何よ?突然」
 訊き返すと仁王は掴んでいた彼女の髪から手を放して椅子に背を預けながら、愉しそうに微笑う。
「勿体ねぇだろ、折角似合ってんだ。俺がイイっつーまで切るなよ
「何で髪を切るのに君の許可が必要なのよ?」
「俺が決めたから」
 あくまで自分の意志を曲げない彼はに約束を持ちかける。
 その強引さは常日頃から身に沁みて知っているから、降参の意で肩を竦めるはいつまで?と意地悪く訊いた。
「そうだな……お前に好きな奴が出来るまで、とか?」
 予想しなかったその回答に彼女は面食らう。
「何それ?」
「もしお前に好きな男が出来て、ソイツが短いのが好みだっつんなら切れば良い」
「長髪が好みだったら?」
「ソイツの為に伸ばせばイイ」
 言っている内容はタラシ男のようだが、何でもないように仁王がさらりと話すからは小さく息を吐く表情は冷めていた。
「……私に好きな人が出来るかはともかく、私が相手の好みに合わせてやるとでも思う訳?」
「さぁ?恋する乙女は判んねぇよ」
「はっ。私には縁遠い話だわ、テニス一筋なの」
「まぁそうだろうな」
 吐き捨てる彼女に仁王も然して動揺もせず、同意しながら席を立つ。
 そのまま窓辺へ赴き、外の景色を眺める。
「――俺には、逃げてるようにも見えるがな」
 呟いて横目で窺うとの顔は無表情だった。
 怒っているというよりは、拗ねているのに近い。そう判断出来るくらいには、仁王も親しい者になっていた。
「お前は、約束なんて作りたくないかもしれんが…」
 何も見なかった素振りで仁王は教室へ身体を戻して、窓枠に背を預ける。
「繋がることが総て悪いことじゃないだろ。偶には、力を抜かんと人生も面白ーない」
「年寄り臭いこと言うわね……でも」
 諭すような口振りに、は苦笑しながら同じように窓の外を見る。
 少しずつ夕陽色に照らされ始めた街並みを見ながら、彼女は柔らかく笑って。
「そうね。偶には、悪くないかもね…」
 その表情の意思の総てを、仁王に読み取ることは出来なかった。





 †END†