Act.5


 それはある、仲の良い家族のこと。
 両親は会社でもかなり偉い役職で、それなりに忙しかったけれど。
 何より子供達を愛して大事にしてくれていたから、子供達もそれを理解して応えていた。
 忙しい両親に代わって姉は弟の面倒をよく見ていたし、気弱な弟も姉をよく助けていた。
 家族の一番の楽しみは、どんなに忙しくても休日に皆で出かけることだった。
 そして姉弟が最も楽しくて打ち込んだのは、父親が教えてくれるテニス。
 テニスで知った楽しみと、成長する喜びに二人は嵌りこんでいった。
 それは両親にとっても嬉しいことだったようで、家族はこの倖せが続くものだと思っていた。

 だが、それはある日に崩れ去ってしまった――





「弟だけじゃない…私の本当の両親も、幼い頃に火事で死んだ」
 そう告げた後、何か抑えていたモノが溢れるように。は毛布を強く握り締めた。
 過去を話すのに抵抗はない。けれど、今にも泣き出しそうだった。
 ――今朝みたのは、その火事に遭った日の夢。
 最近は見ていなかったのに、彼女は思い出して強く目を閉じる。
 脳裏に浮かぶのは、あの日の、弟の優しい笑顔。

 あの笑顔を、私は護りたかったのに……。

 昏く押し潰されるような感覚から引き戻してくれたのは、柳の声だった。
「では、今の両親は…」
「……うん。親の仕事仲間で、親しかった今の両親が私を引き取ってくれた」
 紡いだ声は思っていたよりずっと、柔らかかった。けれど覇気はない。
「そうじゃなかったら、私はきっと生きることを放棄していたと、思う」
 零れるように呟いて顔を上げれば、そこにはいつもの柳の顔があって、は少し気持ちが和らいだような気がした。
 周りが少なからず驚いている中、ベッドの横に立つ柳は何も変わらずにいた。
 既に母親と面識がある彼は薄々判っていたのかもしれない、とはぼんやり思った。
 自分の本質を知っているから、おっとりとした母親と彼女の違いに気付いていたのかもしれない。憶測に過ぎないけれど。
 事の深刻さに戸惑ってか、壁付近で椅子に座っていた丸井が口を開く。
「生きることって、大袈裟じゃあ…」
「――それ程、大事だったんだろ」
 被せるように、珍しく硬質な声で言ったのは、丸井の隣りで壁に寄り掛かる仁王だった。
 その真実を見つめるような鋭い視線を、真っ直ぐへ向けたまま。
 彼女はそれを受けて、一度目を伏せてから窓の外へ視線を向けた。
「そう…――あの頃、私にとって家族は世界の全てだった」
 見つめる先の空はまだ青く、太陽が沈むのを待っているように穏やかだった。
 人の目に見えているモノがその人間にとって世界の中なら、にとってそれは家族だった。
 況して、世間を知らない子供にしてみれば、大切なモノというのは手の届く範囲にある。そして彼女の家族に対する想いは、幼い頃から強かった。
「…それを繋ぎ留めているのが、テニスか」
 呟いたのは柳で、まるで見透かされた気持ちでは振り向いた。はっきりと言葉にされて、自覚する。
 火事で残った物は何も無かった。
 総てを失い、残っているのは記憶の中の思い出だけ。
 そのテニスという思い出に縋り付いている自分の弱さに、嫌気がしては自嘲した。
「情けないわよね、ホント…っ」
 吐き捨てるように言うと、返ってきたのは掌の温もり。
 顔を上げれば、柳とは反対側の椅子に座った幸村が彼女の手を握っていた。
「僕はそうは思わない。人間らしくて良いじゃない、それに嬉しいよ」
「…何が?」
 まるで場違いな笑顔を見せる彼に、は訝しげな表情を向ける。それでも笑いながら。
「君の心の内が見れて。昔の話なんてそうしてくれないからね」
 彼がワザと寂しそうに言うと、周りの丸井や仁王達がうんうん、と頷くものだからは当惑するしかない。
「そう…だった、かな?」
「うん。それに見掛けに寄らず、熱血だね。倒れるまで続けるなんて」
「わ…悪かったわね」
 聞き慣れない言葉に、照れていいのか怒っていいのか判らず彼女は顔を背けた。
 しかしそれに食いついて来たのが、いつも以上に不機嫌な真田。
「悪いと思っているなら、何故あんな無茶をする?」
 余程、そのことで文句を言いたかったのだろう。一歩前へ出て、彼は問い詰める。
「体調が良くないと判っていながら、何故試合を続けた?」
「…負けたく、なかったから」
「だからと言って故障でもしたら…」
「――だって!」
 言い募る真田に、は遮るように叫んだ。
 狭い室内でそれは響き、真田を黙らせて皆を驚かせた。我に返った彼女は、ゆっくりと視線を下に落とす。
「置いて行かれたくないから……」
 口にして、流れる沈黙に後悔した。なぜ彼らにここまで話してしまうのか。
 簡単なことだ。彼らを選手として、認めているからだ。
 負けたくないと思うほど、強さへの執着は募っていく。
 それでも男女の差は埋められず、日増しに実力の差を自覚する。
 が抗っていたモノに気付いたのは、やはり柳だった。
「――強くなりたいのは判るが」
 視界に入ってきた姿に顔を上げると、傍に寄った柳が彼女を見下ろしていた。
「焦るな。一人で抱えるなと言っただろう。その相手なら、幾らでも俺がする」
 いつもと変わらない口調で、それでもどこか嗜めるように彼は言った。
 その言葉に、はいつかの病室を思い出して、柳を直視できなかった。
 なぜだろう。あの、雨の放課後から変わらない柳に安心を憶える。

 自分は、何も求めてはいなかった筈なのにと――。

 まだ迷うような彼女を見て、溜め息を吐いたのは壁から背を離した仁王。
「……それに、俺達はお前を買ってんだよ。選手として」
「だから君にはこんなところで躓いて欲しくない」
 続けた幸村には顔を上げて、皆と視線を交わす。
 そこにはコートの中と同じ選手の顔をした、仲間達がいた。
「強く、なりたいんだよね」
 掌を握ったまま、殊更強く問う幸村に、彼女はそこでやっと笑みを零した。
 きっと彼らでなければ、伝えることは無かっただろう。
 そのきっかけをくれたのは彼だと、柳へと振り向いてから幸村達へ真っ直ぐ視線を向けた。
「私は、強くなりたい。テニスで全国に通用する選手になりたい」
 真剣に、初めては彼らに本音をブツけたような気がした。総てではないが、一歩でも前に進めたのかもしれない。
「だってさ、真田」
 彼女の言葉を受けて、幸村が楽しそうに振り返った。
 その真田はどこか戸惑うような照れたような様子で顔を背けて、言い放つ。
「…まったく、お前は無鉄砲だからな。好きなだけやれば良い」
「何よソレ。言われなくてもそうするわ」
「だが、また今日のような事になれば、俺達は止める」
 まるで子供扱いをする彼に、が突き放すように答えると真田は強くそう言った。
 見れば、その表情は怒りではなく決意の色をしていた。
 恐らく同じことを繰り返すと彼らは判っているのだろう。そして彼女もそれを自覚している。
 それでも進むということも。
「安心して強くなれ。お前を潰させはしない」
 真田の言葉に一番驚いたのは、向けられただった。
 思ってもみなかった台詞にただ固まって、彼女は俯いた。幸村に掴まれていない手を気付かれないように力一杯握り締める。
 鈍い痛みだけでは抑えられずに、泣きそうになった。
 けれど彼女はそれを何とか抑えながらゆっくりと顔を上げ。

「――ありがとう」

 笑顔で言えたかは、少し不安だった。





 †END†




書下ろし 08/04/01