――視えるのは、一面のアカ。

 それは平穏だった日常を一瞬で消し去った。
 まるで空へと昇るような、視界を埋める煙の中で。
 少女の一番大切だった者は、護らなければならなかった子は。

 儚く、微笑んだ…――










 Act.1


 新緑薫る、よく晴れた朝の立海大附属中学校。
 新入生を迎え、二年生になってから一ヶ月が経とうとしていた。
 その中でを取り巻く環境に大きな変化はなかった。
 それが良いことか否かを彼女は判断出来なかった。それでも、嬉しいと思ってしまうのは心境の変化なのかもしれない。
 昇降口へと続く道を、珍しく一緒に登校していた柳達と歩いていたは、不意にくしゃみをした。
「…大丈夫?」
 割と大きなくしゃみに、隣りにいた幸村が心配そうに覗き込む。
 彼女は鼻を啜りながら空を仰いだ。
「ん〜…ちょっと寒気がするかも、風邪かなぁ」
「何…?」
 弱気な言葉に真田が驚いて彼女の額に手を当てようとする――が、は直前でその手を掴んで阻止した。
「……何のつもりだ?」
「それはこっちの台詞よ。何をしようとしてるのかしら?」
「決まっているだろう。熱がないか測って……」
「測らなくて良いから。アンタは母親か!」
 互いに手を掴んで抵抗し合っている姿はかなり異様だった。本人達が真剣なだけに余計、不思議に見える。
 既に彼らの中では当たり前になっているが、真田はに対してやけに心配性だった。しかしそれも当然で、彼女は自己防衛に疎い。
 最近の話ではないが、上級生からのイジメで水を掛けられたあの後日、は結局風邪を引いていたのだ。
 攻防を続ける二人を止めたのは、後ろにいた柳の掌だった。
「…確かに熱があるな。今日は大人しくしておいた方が良い」
 睨んでいたの額に手を添えて後ろへと引く。
 必然的に胸へと抱き込む形になった彼女を、柳は見下ろして忠告した。
 するとは不思議そうに見上げていたから、彼は顔を顰めることで尋ねる。
「……熱、そんなにある?」
 訊き返してきたのに、柳は少し沈黙して視線を逸らす。
 余り本人に自覚はなかったようで、彼は頭を小突いてから離れた。
「微熱程度だ。悪化させるなよ」
「いった!」
 大して痛くはないだろうが、は不機嫌に叩かれた頭を押さえ、急に思い出したように歩き出した。
「あ――私、日直だったの忘れてた。先に行ってるわ」
 言いながら駆けて行くのに、慌てるように声を掛けたのは真田。
「走るな、風邪が悪化したらどうする?」
「だーい丈夫。真田は心配し過ぎだよー」
 彼の忠告には反論しながら逃げるように、校舎へと駆けて行った。
 それを見送った後、珍しく柳が呆れたような溜め息を吐いて真田を見た。正確には、睨んでいたのかもしれない。
「騒ぎ過ぎだ、弦一郎」
「そうだね…少し、大袈裟かな」
 控え目ながら忠告をする二人に、真田は驚いたような怒ったような表情になった。
 確かに少し騒ぎ過ぎたことは認めるが、彼らほど冷静にはなれない。
 真田は彼女の無謀さも己に対しての無頓着さも、よく知っていた。それは二人も同じ筈だ。
「だが…」
「――どうにもなくなった時は、俺がを止める」
 まるでそれが自分の役目だとでもいうような柳に、真田と幸村は何も言えなかった。
 それだけの説得力があり、も彼を一番に信用している節があったからだ。
 それとももっと、別の『何か』だったのかもしれない。




















 いつも通りの授業を終えた、その日の放課後。
 部活へ向かう為には早足で廊下を歩いていた――朝よりも、身体の不調を感じながら。
 そして脳裏を過ぎるのは、今朝みた遠い昔の夢。
 懐かしむには、余りに苦い幼い頃の夢。
 表には出してないが、それが余計に彼女の機嫌を悪くさせ、体調に響いていた。
 だから早く部活へ行って練習に打ち込めば忘れられるだろうと、は部室へと急ぐ。……安静にして治すという選択肢は、今の彼女にはなかった。
 階段を降りて、一階の廊下を歩いている時。
 は前方から歩いてくる上級生とブツかってしまった。
「――…いってぇな、オイ!」
「ごめんなさい…」
 反射的に謝罪して顔を上げると、そこには見憶えのある二人の男子生徒。
 男子テニス部でガラの悪い上級生達だった。
 半分ニヤついている顔は、明らかに故意でブツかってきたのだろう。
「なんだ…コイツ、例の女子部の2年じゃねぇか」
「今から部活か?大変だな、出来る奴は」
 あからさまな絡み方に、は溜め息を吐きそうになる。馬鹿らしくて笑みを浮かべるのも億劫だった。
「えぇ、だから急いでいるんです。そこを通して貰えませんか?先輩達だって、後輩を構っていられるほど暇ではないでしょ」
「何だと…?」
 本人は穏やかに言ったつもりだったが気持ちが焦ってか、少し早口になっていた。道を遮る三年の片方が顔色を変える。
 どの道、部活練習にも出ずフラフラと遊び呆けている人間に、まともな会話を期待出来る筈もなかったが。
 それでも制止したのは隣りの男で、まるで値踏みするかのようにを観察して嗤う。
「…へぇ、気の強い女だ。あの幸村達が目をつけただけはあるってことか」
 怯まない後輩に愉しそうな男の言葉は、の眉を動かした。
 ――知っている。彼らは幸村・真田・柳の三人の所為でレギャラーを追われた身だ。
 それを恨んでか、やたらと幸村達に絡んでいるようだった。
 尤も、彼らがそんな陳腐な相手をする筈もなく、当たるしか脳のないこの二人の方が幼稚なのだ。
「一体どんな手でオトされたんだ?弱味でも握られてんのか」
「案外、イヤらしいことでもされたんじゃねぇ?男が3人じゃ手も足もでねぇだろ」
「それもそうだな」
 下卑た笑いで好き勝手に話を進める彼らは、気付いていなかった。
 の纏う空気が、変わっていくのを――。
「ムカつくんだよ、お前ら。年下の癖にデカい顔しやがって…何様だァ?」
「アイツら、大方レギャラー取るのに裏で汚い手でも使ったんだろ。卑怯な奴らだよ、なぁ?」
 無造作に伸ばしてきた男の手を、は払い除けた。
 響いた音に叩かれた手を引いて睨む上級生の表情は、驚きに変わる。
 いつも笑っていた目の前の少女が、無表情に二人を睨んでいたからだ。
「………訂正、して下さい」
 低く、抑えるように呟かれた声は鮮明に聞こえた。