「――蓮二」


 その呼びかけに、驚いたのは真田の方だった。
 葉の散り始めた秋を感じる季節。
 校舎の廊下を歩いていた時、後方から聞こえたのはが柳の名前を呼ぶ声だった。
 振り返って見れば、柳と話す彼女の腕には、真新しい包帯。
 それは先日、が強くなりたいが為に過度の練習で負った傷。そして真田の脳裏に今も浮かぶのは、あの時の苦しそうな少女の姿。
「…あぁ、後で行く」
 一通り話し終えた彼女は先に教室へ戻り、別件があるとその場を離れようとした柳を真田が呼び止めた。
「……何か、遭ったのか?」
 ただそれだけ訊くと、柳は珍しく微笑った。
「…アイツなりに、歩み寄ってくれたのだろう」
 ただそれだけ言って、柳は立ち去って行く。
 真田はそれが不思議でその場に立ち尽くしたまま、見送っていた。




















 昼休みに移動のため、真田が階段を下りていた時。
 手摺りの下から話し声が聞こえて、思わず足を止めた。
 ただの生徒達の会話なら気に留めることはなかっただろう。けれどその声は妙に甲高く、敵意というモノを感じて真田は見下ろした。そして目を見張る。
 階段下の人目の付かない、倉庫前に数人の女子が一人の女子を囲んでいた。
 容易に想像のつく状況だった。単なる女子同士のいざこざなら、知っている人間でもそうでなくとも真田なら見過ごしていただろう。けれど出来なかった。
 そこで囲まれていたのは、穏やかに微笑む だった。
「――ちょっと、聞いてんの!? アンタっ」
 痺れを切らしたのか、一人の女子が喚く。は煩わしそうに、綺麗に微笑った。
「聞いてますよ、先輩。それで私にどうしろと言うんですか?」
「だからもっと行動を自重して欲しいのよ」
 追い詰められている状態で、彼女の態度は酷く平静だった。
 本人は友好的に接しているつもりなのだろうが、それが返って相手の癇に障っていることに気付いていないのか。―― それとも、態とやっているのか。
 真田は、それが意外だった。
 彼女が進んでこんな下らないことを受けるとは思えなかったからだ。恐らく、偶然に出くわして捕まったのだろう。
「私がどう行動しようと、先輩方には関係無いじゃありませんか。他人を気にかけるよりも、自分達のことを心配したらどうです?」
「…なんですって?」
 笑顔を崩さず滑らかに言うに、不穏な空気を纏い始めた女子達は、今にも彼女に掴みかかりそうだった。
 それを見て真田が止めようと駆け出しかけるが、不意に足を止める。
 自分に気付いていたらしいが、真田を見て睨んでいたからだ。……まるで、手を出すなとでも言っているように。
 けれどそれを諌めたのは、意外にもその女子達のリーダー挌と思われる女子だった。だが隣りの女子に、近くに置いてあった掃除用具のバケツを持って来させる。
 それには、水が入っていた。
「少し、頭を冷やしなさい」
 そして躊躇いなくその女子はへと水を掛けた。
「――!」
 目前の出来事に真田が驚いている間に、愉しそうに笑いながら女子達は立ち去った。それを見届けた後、彼はの許へ駆け寄る。
「おいっ大丈夫か?」
「…………」
 慌てる真田に、当のは平然としていた。何事もなかったかのように溜め息を吐き、呆れた様子で濡れた髪を緩慢に払う。
「平気よ。だから大袈裟に騒がないで」
 まるで宥めるように言う彼女は妙に落ち着いていたが、疲れも見える。
 それを見て違和感を憶えた真田は瞠った。
「お前…まさか態と……?」
 半信半疑で訊くと、は一瞥した後に今度は深く溜め息をついた。
「……別に。殴られる位の覚悟はあったけど、まさか水を掛けられるとはね」
「何故、抵抗しなかった?」
「あーいう手合いには下手に逆らわない方が賢明よ。ま、言い成りになるつもりはないから、後できっとまた怒り狂うでしょうね」
 愉しみだと言わんばかりに嘲笑う様は、狡猾で、彼女の根元にある本性とも言うべき性格が滲み出ていた。
 それは真田達にだけ見せる、偽りの無い姿。
「――だからと言って、大人しく水を被ることはないだろう」
 突然、に後ろからタオルを掛けながら現れたのは柳だった。それに一番驚いたのは彼女で、勢い良く振り返った。
「蓮二っ?何で…」
「壁に何とやら、と言うヤツだ」
 少し動揺した様子で訊くのに、柳は至って普通に答えた。
 は固まっていたかと思うと彼の言葉を聞いて、呆れたように息を吐く。
「…マヌケね。尤も、頭がキレる人間はこんな下らないことはしないでしょうけど」
「でも、羨ましいんだろう」
「……冗談」
 まるで何もかもを見透かしたような柳に、彼女は跳ね除けるように笑った。
 それをただ、真田は眺めるしか出来なかった。
 最近になってこの二人には、他人が入り込めない何かがある――と、そんな漠然としたモノを感じていた。
 確証は無い。ただの感覚的なモノで、どう確かめようかと考えかけて柳の声に遮られる。
「弦一郎、俺は着替えを持ってくるからを保健室へ連れていってくれ」
「あ、あぁ…」
 言いながらその場を離れようとする柳をが呼び止める。
「ちょ…待って、自分で取りに…」
「―― その格好では教室に戻れないだろう」
 だが柳は遮って、念を押すようにして去って行った。
 彼を見送るの後ろ姿が、少し寂しそうに見えてしまい、真田は無意識に目を逸らして声をかける。
「…行くぞ、
 けれど返事はなかった。
 不思議に思い振り返ると、彼女は驚いたように真田を見ていた。
 正直、自分でも口にした名前に驚いていたがそれは隠した。その自分よりも驚いているに、怪訝に訊く。
「……何だ?」
「いや……」
 少し目を伏せて、彼女は無表情に呟く。
「野良猫の気持ちが、少し判ったかも…」
 脈絡のない言葉に真田は益々、眉を顰めた。
「何だ?それは…」
「何でもないわ。独り言」
 そう言って何事も無かったようには歩き出し、さっさと保健室への廊下を歩いていく。
 納得はいかなかったが、追求しても無駄だろうと判断した真田は急いで彼女の後を追う。とはいえ、女子と男子とでは速さと歩幅が違うので、真田は駆け足をせずにの横に並んだ。
 その横に並んだところで、が立ち止まる。
「別に、ついて来なくても一人で行くから」
「だが…」
 振り向きもせず平坦な声で言う彼女に、真田は戸惑った。
 彼もがちゃんと着けるかや、行かないかもしれないという心配でついていこうとしているんじゃない。いや、後者は有り得るから心配だったが。
 こんな頭からずぶ濡れになった女子を放って置けるほど、真田も非道ではない。
 風邪でも引いたらどうするんだ?とでも言うべきか、と考えていた真田には、いつもの感情が削げ落ちたような無表情で振り向いた。
「この姿へのフォローなら必要ないわよ。水入りのバケツに引っ掛かって転んで濡れました、とでも言っておくから」
 彼から離れるように、は声をかける隙を与えず歩き出す。
「それに、私に付き合ってたら授業に遅れちゃうわよ真田」
 まるでついて来るなとでも言うように、明るく振る舞いながら去ってしまった。
 可愛くないな…と、真田はらしくないことを思いながら背中を見送る。
 反対に意外にも思った。一応、保健室へは行かないという選択肢は彼女の中では無かったらしい。

 アイツに言われたからか……?

 そう思って立ち尽くしていると、そこへ沸いたように現れたのは部活仲間の仁王。
「そんなトコに突っ立って、どげんしたん?通行のジャマよ〜」
 前に回って覗き込んでくる彼に、真田は不機嫌に睨んだ。
「そげん怖い顔すんなって…女子が逃げちゃうぜ?」
「それは関係無いだろう」
 フザける仁王に付き合っていられないと真田は歩き出した。
 けれど懲りずに、仁王も横を並んで歩く。
「何だよ、心配してやってんのに…――絡みか?」
 然して心配していない口振りに、少し驚いて真田がまた彼を睨む。
「……何故、そう思う?」
「さっき、の姿が見えたから。それに…」
 笑っていたかと思うと仁王は声のトーンを落として言った。
「アイツの雰囲気が、変わったから――かな」
 その言葉に真田は少し呆然となった。
 確かに、最初に出逢った頃に比べれば彼女は変わってきているのだろう。
 しかしそれは人の髪が伸びていくような感覚に似ていて、目で判断出来るようなモノではなかった。何ヶ月か経って過去を思い起こして気付くようなモノだ。
 だから今の時点で、仁王がはっきりと言い切れることに真田は驚いていた。彼が言うのだ、この分だと柳は確実にの変化を知っている筈だ。
 その思いを知ってか否か、仁王は振り向いて珍しく真面目な顔で訊いた。
「――…お前、気付いているか?」
「……何をだ」
が笑わなくなったコト」
 言っている意味が判らなくて、顔を顰めた。少なくとも、彼女の本性を知らない者達には、はいつもの笑顔で接している。
 真田の考えを察したのか、仁王は首を振った。
「普段のアイツを言ってるんじゃねぇ。俺達の前で、笑わなくなった」
 言われて、真田は漸く納得した。
 が仁王や丸井達に素の部分を明かしてからは心を開いたのか、それとも諦めたのかは判らないが、彼らの前で自分を隠すことはしなくなった。
 それは彼女が無理をしなくなったということだから、良いことだとは思っていたのだが。

 ―― そういえば、春に比べてアイツの笑顔を見ていない気がする…。

 全部が良いことには思えないが、悪いことにも思えず真田は考え込んだ。
 けれどそれは自分達が望んでいたことだったろうか――?
 沈黙を保って歩く二人の姿は、傍から見れば妙な様子だったかもしれない。隣りの仁王も珍しく真面目な表情で黙っていたかと思うと、不意に口を開いた。
「……なぁ、を女子部に誘ったのって、やっぱ柳なのか?」
「あぁ…いや、正確には入部を勧めたのはそうだが、それがどうした?」
「いや、道理で仲がイイなと思うてな。ま、幸村もだけど」
 クラスメイトだから当然か、と呟く彼に真田も不満ながらも納得した。
 でもと続けた仁王は、少し悔しそうに頭の後ろで腕を組んで天井を仰いだ。
と柳は別だな。なんか、特別ってカンジがする」
 それに真田は立ち止まった。そして、無意識に出た問い。
「――どっちに、とってだ?」
 つられて立ち止まりながら、振り返った仁王は苦笑を浮かべる。


「さぁな…」





 †END†




書下ろし 07/12/06