まず驚いたのは、変化というのは意外と身近にあって、単純なことだったということ。
 けれどそんな些細なことでも、勇気が要ることに少し逡巡した。
「――…呼び捨てで構わない」
 いつもの教室で、いつも通りに柳君と呼び返すと彼は振り向いてそう言った。
 私は少し驚いて動きを止める。それを迷いとでも思ったのか、隣りにいた幸村君も続けて。
「クンはいらないから、僕も幸村って呼んでよ」
「えっ……と…」
 考える私に二人は心なしか期待するような眼差しをしていた気がして、取り敢えず呼んでみた。
「柳…と、幸村」
 僅かに戸惑って呼んだ名前が、少しだけ違うモノに思える。そして、
「なに?」
「何だ?」
 同時に答えて微笑む二人に、私は何とも不思議な気持ちになった。










 歩み始めたキミの










 喧騒に近い昼休みの校舎の廊下を、私は重い足取りで歩いていた。
 というより、心が重いと表現した方が正しいのかもしれない。
 そんな私の心情を知ってか否か、通り過ぎる生徒達の視線が痛い。…出来れば、自分の勘違いであって欲しいと思うくらいだ。無意識に深い溜め息が出る。
 それに気付いて、私の隣りを歩く幸村が声を掛けてきた。もう片方の隣りには柳。
「どうしたの?」
「……どうしたじゃないわよ」
 平然とした態度が思いのほか私に苛立ちを与えた。一因が彼にもあるだけに余計にそう思う。それを察してか、柳は小さく苦笑していた。
 あの夕暮れの河川敷で行った勝負の後、女子テニス部へと入部した私は面倒なことに注目を浴びることになった。
 単に入部するだけならそんなことにはならなかった筈だ。
 けれど幸村達が私をレギャラーメンバーにする為なのか、レギャラーである女子部員達に勝負を申し込んだのだ。それも私の承諾もなしに、知らない内に勝手に無断でやったこと。
 その試合も強引なモノで、勝ち抜き戦。
 とは言っても私一人に対して相手は女子部員数人。要は私が負けるまで試合は続き、全員に勝てばレギャラーになれるという内容だ。
 ……そして、私は全勝してしまったのである。
「私が悪目立ちしてるの、君らが余計なことをしてくれたお陰なんだけど?」
 低い声を使ってやんわりと幸村を睨む。けれどやはり彼に効果はなく、穏やかに微笑むだけ。
「心外だね。僕らは君の為を思ってやったことなのに。――それにしても、アレは見事な勝ちっぷりだったね、
 いつの間にか、幸村まで呼び捨てにしているし。
 短い息を吐いて考え込む。気がつくと、私は柳に名前で呼ばれるようになっていた。
 勿論、許可をした憶えはないし別に嫌という訳ではないが、家族以外に名前で呼ばれるのは久しぶりだったから違和感がするというだけだ。
 そしてさり気なく幸村もそれに便乗していた。…ま、構わないけれど。
「全試合をラブゲームで押さえたんだ、噂にもなるだろう」
 淡々と告げる柳の言葉通りに、殆どの試合を最短で終わらせ圧勝した女子がテニス部に入部したという噂が、様々な尾ひれをつけて校内中に広まっていた。
「やるからには全力を尽くすわよ。……けど、迂闊だった。もう少し慎重になるべきだったわ…」
「どうして?」
 今度は不思議そうに訊く幸村に、私は思わず露骨に不満な表情を二人に向けて、それから溜め息混じりに目を伏せた。
「…判らないなら良いわ」
 呆れるように言うと、やはり二人は判らないといった風に顔を見合わせていた。まぁ、それは無理もないだろうと内心で呟く。
 私以前に、元々柳達もそれなりにこの学校では有名だった。その内、彼らのファンだの何だのが出てくることは容易に想像がつく。スポーツマンというのはモテるのだ。
 そしてそんな彼らと親しくしていれば、自分に向けられるモノは火を見るより明らかだった。だがそのことで何か仕打ちを受けたとしても、自分にはそんなことに怯まない自信があるから深く悩む必要もないが。
 ただ一つ、問題になるとすれば…――
 そこまで考えて私の思考を遮ったのは、前方から掛けられた呼び声だった。
「――あっじゃん!」
 廊下に響く声に顔を上げると、そこにいたのは元気に手を振る赤髪の丸井ブン太。明るい表情を向ける彼に私はにっこりと笑って答える。
「丸井君」
「聞いたよ!お前、女子部の子ら全員負かせてレギャラーになったんだって?やっぱ凄かったんだなー」
 なぜか興奮気味に両手を掴んでくる丸井君に、少し困りながらも私は微笑む。
 別に女子部の全員と勝負をした訳ではないけれど訂正するのも面倒だ。
「これから私もテニス部員だから、宜しくね」
「あぁ」
 互いに笑いながら握手する様は、端から見ればきっと微笑ましい光景なんだろう。…一部、何か違う視線を感じるけれど知らない振りだ。
 私達の後ろで眺めている柳と幸村は、先程とは全く違う表情の私に素知らぬ顔をしている。どちらかと言えば、その方がやり易いし有難い。
 この学内で私の素の部分を知っているのは、彼ら二人と真田だけだ。
「それより、何処へ行くつもりだったの?教室とは逆だよね?こっち」
 思い付いたように尋ねる幸村に、丸井君は何かを気付いた顔をしたあと黙り込み、なぜ思い出したような顔を上げて身を乗り出してきた。
「そだ!、これから屋上行こうぜっ会わせたいヤツもいるし!」
「え?」
 前触れもなく唐突に無理なことを言ってくる彼に私は戸惑った。今はまだ昼休みだが、それも残り数分で終わる。だから柳達と教室へ戻っていたのだ。
「でも、もう授業始まる…」
「そんなのサボっちゃおうぜ!」
 何でよ。授業をサボるなんて出来る訳ないでしょ。
 声には出さず、内心で吐き捨てながら抵抗するも丸井君は手を引っ張っていく。堪り兼ねて助けを求めるように柳へ振り向くと、なぜか彼はあっさりとした表情で簡潔に言った。
「行って来ると良い」
「…はっ? 何言ってるの、こういう時は止めるべきでしょう?理由も無くサボれる訳がないじゃない」
「先生には、俺が上手く言っておく」
 そういう問題じゃないわよ。
 思いも寄らない返答に、思わず素で突っ込みそうになってしまった。まさか止めるだろうと思っていた相手からサボることを勧られるとは予想外だ。幸村ならまだしも。
 丸井君と手でも組んでいるのかと、訝しげに睨んでいると柳はただ穏やかに笑うだけだった。
「これも勉強だと思えば良い」
「そうそう。いってらっしゃーい」
 無責任とも言える柳と、にこやかに微笑んで手を振る幸村を置いて、私は強制的に丸井ブン太によって屋上へと連れて行かれるのであった。















 強引に連れられて屋上へ辿り着いたのは、既に授業が始まってからだった。二人の片手にはパンやお菓子の入った袋。
 薄情な柳達と別れた後、丸井君に引っ張られながら行ったのはまず購買部だった。そこでなぜか彼は菓子や飲み物やらを買ってから屋上へと向かった。よく教師に見つからなかったなと、喜んで良いのか残念なのか迷う思いで私は仕方なくついて行った。
「アレ?…っかしなー。いると思ったんだけど」
 錆びた屋上の扉を開けて、外へと出た丸井君は誰かを捜すように中央へと歩いていく。そういえば誰かに私を会わせたいと言っていたな、と思い出しながら空を仰いだ。
 広がるのは陽の高い、晴れ晴れとした青空。屋上にいる為かそれも近く感じる。
 そう思いながら空を見ていると、唐突に後方の頭上から声が降ってきた。
「――これはまた、珍しい客だな」
 聞こえたのは落ち着いた男子生徒の声。反射的に振り返ると、声の主は私達が出てきた入り口の屋根から軽々と飛び下りてきた。
「こんな所に何の用だ?」
 体勢を崩すことなく、綺麗に着地したのは銀髪とも見える、目の吊り上がった男子生徒だった。とはいっても怖い印象はない。多少制服を着崩している感はあるけれど、外見的に私達と同じ一年生だろう。
 私が彼の登場に驚いていると、後ろにいた丸井君が呆れたように言いながら前へ出る。
「そんな所にいたのかよ、仁王。捜したじゃねーか」
「何だよ、俺に会いに来たんか?」
 どうやら知り合いらしい二人を眺めていると、仁王と呼ばれた彼が私へと視線を向ける。それに気付いて丸井君が紹介をしてくれた。
「あ、。コイツ・同じテニス部の仁王雅治。前にお前が見学に来てた時はサボっていなかったけどな」
 からかうように説明する丸井君の後、彼は端的に言って悪戯するように笑った。
「――宜しく」