雨が、降る。
 空に低い鈍色の雲を広げ、静かな雨が朝から降り続いていた。
 そんなかすみがかったような外界を、離れた場所で少女は教室の席から、時同じくして少年は廊下の窓から眺める。
 まるで天からの恵みのようでいて、それは人々への悲しみであるような。
 ――――確かあの日も、こんな雨が降っていた…。
 少女が微笑い、少年が空を仰ぐ。
 空を覆い隠す雨雲は、頻りにその涙を流す。
 そんな憂鬱さえ思わせる雨を見つめながら、少女と少年は想い馳せる。

 遡るは、二年前の刻。


 "アイツと初めて話したのは、静かな雨が降る日だった"




















 新しい春を迎えてから約二ヶ月。
 梅雨入りした小雨が降り続く下校道で、柳が公園の傍を通りかかった時。
 か細い猫の鳴き声が聴こえた。
「……?」
 足を止めて声のした公園を見れば、そこには傘も差さず同じ中学の制服を着た女の子が、大きな象の形をした遊具の前でしゃがみ込んでいた。見知った顔だ。
 あれは…――
 確かに公園にいたのは同じ一年でクラスメイトの
 話をしたことはなく、クラス内でも大人しくて目立つ方ではなかったが、その利発な顔立ちが印象的だった。
 そしていつも穏やかに笑っている女の子。
 柳だけでなく、それは殆どの者がもっているであろう彼女の印象だ。ただ、柳には微かな違和感があった。
 暫らく柳は眺めていたが、徐ろに歩き出してそこから動かないの許へと向かった。
 水溜りを弾く音以外は足音も立てず、後ろから近寄って無言で彼女の頭上に傘を差し出す。
 すると地面に落ちる雨音がビニールを弾く音に変わったことに気付いたが、ゆっくりと振り返る。
「アレ?君は……柳、君?」
「……何をしている?」
 驚いて不思議そうな顔をするは、髪も制服もかなり濡れていた。小雨とはいえ、傘も差さずに一体どのくらい雨の中をここでこうしていたのだろうか。
 少し呆れを含めて問えば、彼女は目を丸くしてから笑って僅かに身体をずらす。
 見るとそこには、雨に濡れた真っ白な子猫がいた。
 まだ幼い猫は鳴くだけでその小さな顔をくしゃりと崩す。それに応えるように、子猫の頭を撫でては振り返って笑いながら言う。
 一部の隙もない、穏やかな微笑みで。
「この子が、淋しそうだったから」
 雨の所為で泣き笑いしているかのように見えるその姿が。
 柳には、の方が捨てられた猫のようだと思った。










 in the Rainy










 そのままでは風邪を引くと、柳は(と子猫)を公園内の屋根のあるベンチへ向かわせた。
 傘を閉じて雨滴を払っていると、ベンチに腰を降ろしたがハンカチで濡れた髪や身体を拭いていたが、そんな小さな布切れで到底拭えるものではなく。
 柳は傘を畳んでの許へと歩み寄り、肩から掛けていた通学鞄と兼用しているスポーツバッグの中からタオルを取り出して差し出した。
「まだ使っていない物だ。これで拭くといい」
「あ……ありがとう」
 不意を衝かれたような表情で顔を上げたは、すぐにいつもの笑顔を見せてタオルを受け取った。
 柳はそれに僅かに顔を歪ませたが、自分でもその違和感の正体が判らず。
 そしてなぜか帰ろうという気も起きず、柳は木製の古びたベンチに鞄を置いての隣りに座る。
 彼女も特に何も言わず、柳が貸したタオルで弱々しく髪を拭いている。
 二人は暫らく黙ったまま目前で降り続ける雨を眺めていた。
 時折、足元にいる子猫がへと擦り寄りながら、にゃー…と小さく鳴く。それ以外は、不規則な雨音が世界を支配していた。
「――柳君って…」
 会話の沈黙を破ったのは、呟くようなの声。
 沈黙に耐えられなくなったという様子ではなかったが、躊躇うような口調に柳はゆっくりと視線を雨からへ向けた。
「確か、テニス部入ってたよね?」
 は前方を向いたままに問う。
「……それがどうかしたか?」
「ううん、ちょっと意外なだけかな」
「意外?」
 訊くと彼女は振り向いて人の良さそうな、あの教師や同級生に向けるいつもの、どんな時にも絶やさない穏やかな笑顔を見せる。
「柳君って、落ち着いた雰囲気があるから……テニスって結構、激しい競技じゃない」
 その声も中学生にしては妙に落ち着いていて、そういえばが教室で女子と騒いでいるところを見たことがないなと、柳は思い出す。
 クラスに友人がいないという訳ではなかったが、彼女には特別仲が良いという友人もいなかった。入学して二ヶ月しか経っていないとはいえ、女子というのは割とそういうことに関しては早い方だと柳は思っていたからだ。
 しかしは、女子と談笑していることもあれば一人で読書していることもある。
 まるで誰とも深く関わらないように。"普通"を演じているかのように。
「まぁ、人それぞれだろうが……は、テニスをした事があるのか?」 
「…あるよ。趣味の一つだから」
 止む気配のない雨へと向けていた顔を再びへ向ければ、相も変わらずな微笑み。
 それはまるで、他人を拒絶しているかのようにも見えた。
「…なら、専門雑誌や試合を見たりしないのか?」
 その表情を目にした所為なのか。
 柳にも判らなかったが、彼にしては珍しく自分から話をもちかけた。
 するとは僅かに驚いて、考えるような素振りで答える。
「たまに見る、かな。やっぱりプロの話とか試合は勉強になるから」
「試合するのと観戦となら、どちらが好みだ?」
「それは試合をする方が愉しいよ」
 続けた質問に、の目が僅かに変わったことに柳は気付く。
 それは鋭さを帯びた、強い意志のようなモノ。その時、柳は思い出す。
  という名を以前に聞いた憶えがあったことを。そしてそれが、何の情報からだったのかを。
 それから二人は、テニスの話を続けた。
 プレースタイルや今のテニス業界のこと。それこそ、本当にテニスが好きで実力がなければ出来ない話題まで。
 互いが元々騒いで話す性格ではないから穏やかなものだったが、の表情が僅かに緩んで、時折見せる年相応の笑顔に柳は確信した。
「――…
 会話を断ち切るように呼ぶと、微かに変化した声音に気付いてが振り向く。
 それを見つめ返して、殊更強く訊いた。
「何故お前は、他人を拒絶するようにいつも無理して笑っている?」
 するとは固まったように驚いて瞠った。そして何か言おうとして口を動かしかけたが、すぐに顔を背けて片方の手で頭を押さえながら。
「…………おっどろいたー。まさか、見破られるなんてね」
 吐き捨てるように言って柳に視線を向けるの雰囲気は、これまでとまったく異なっていた。
 冷めた口調に、狡猾さを秘めた冷めた瞳。
 恐らくこれが本来のの姿なのだろうと、柳は本能で悟った。
「少し喋り過ぎたかしら。どこでミスってた?」
 後悔までとはいかないが、僅かに困った素振りでの問いに柳は少し迷いはしたが。
「いや……俺が違和感を抱いたのは、入学してからすぐだ」
「ふーん…それじゃ、素質ってヤツかしら君の。ならどうにもならないかもしれないわね」
 その答えに仕方なさを纏いながらも、の表情は既に諦め気味だった。
 けれど、どこか愉しそうに。
「でも初めてだわ。こんなに早く、しかも同年代にバレるのは」
「…隠さないんだな」
 衝いて出た言葉に、は僅かに目を丸くして、微笑う。
「判っていて口にする人間に隠す必要はないわ。それに、君には無意味そうだし」
 今度は柳の方が驚く。
 確かに彼女が演じているか隠している以上、触れられたくはない事情の筈だ。それでも柳は無視することが出来なかった。
 その理由もまだ判らないまま、彼は呟いた。
「……テニスを、していたなら」

 ――テニスが、好きなのなら。

「何故、部活に入ろうと思わないんだ?」
 思いもよらぬ質問に、は驚きと苦笑しか出てこなかった。
 雨脚の弱まった空へ視線を向けて、少しだけ淋しそうに。
「私ね…転校が多かったの。家庭の事情でね、何度引っ越したかなんてもう数えていないわ」
「…すると」
「そう。ココにも転校して来たのよ。それにまた、いつ転校するか判らない…」

 " いつまで、ここに居られるか判らない。"

 それはもう、慣れてしまったことなのだろう。
 全く心情の読めない笑顔は、返って不安を助長させる。それはもう本当に諦めに近いのだ。
「だから部活には入らないわ。それにテニスなら、何処でも出来る」
 止み始めた雨に見計らって、は鞄を手に取ってベンチから立ち上がる。
 けれど、今でなければいけない気がした柳は咄嗟にの腕を掴んだ。
「…?柳く…」
「――今からでも、部活に入らないか?
 柳の申し出に、今度こそは本当に驚いた。
 思い出したんだ。柳は、彼女がどんな"選手"だったのかを。
「……悪いけど、それは出来ないわ。私にその気が無いもの」
 視線を逸らすに柳は真っ直ぐに。反対に、冷めたような眼差しで。
「…そう、言い聞かせてるだけだろう?自分に。それでもテニスをしたいと思っている事に違いは無い筈だ」
「…………どうして」
 俯いて、呟くようにが訊き返した。
 表情が見えず少し柳が黙ったままでいると、彼女は顔を上げた。酷く、不安そうな顔で。
 初めて見る、その少女の表情は、本当に捨てられた猫のようで。
 柳は無意識に、掴んだままの手に力が籠もった。
「お前と――…」
 そして声にも力が籠もる。

と一緒に、テニスがしたいと思ったから」


 雨はもう、知らぬ間に止んでいた。





 †END†




初出 06/08/07
編集 07/08/31