雨も上がり、静けさが周囲を包む夜。 夕食の時刻になって、食卓には朝と同様に珍しく家族三人が揃っていた。 穏やかな食事を済ませてから、は口を開く。 「あの、今朝・言っていたお父さんの異動なんですが…」 食後のお茶を啜っていた両親は動きを止めて彼女の方へ向いて、母親が穏やかに笑う。 「急で驚いたでしょう。まぁ、突然はいつものことだけど」 「それで、引っ越すんですか」 「え?」 視線を落として言うと、母だけでなく父親も目を丸くした。彼女の湯呑みを持つ手に力が入る。 本当ならこんな確認なんてせずに、は両親に従って引っ越しの準備をしていた。 立海から転校した時も、自分は皆から色んなモノを貰ったから未練なんて何もない、筈だった。 でも実際は彼らとの繋がりに縋りついていただけだった。 だがそのお陰で、青学の皆とも知り合えたんだと思うと少し可笑しかった。 余程・の言葉に驚いたのか、両親は顔を見合わせて。母親が僅かに苦笑して、彼女へ向き直る。 「さんは、転校したくないのね」 母親の言葉にはどこか優しさが含まれていて、は一度目を伏せてから、真っ直ぐ両親を見つめた。 「……はい。出来るなら、ここに残りたい」 無理なことは、彼女も判っている。 まだ社会人でもない自分が、親元を離れて暮らしたいなど無謀だ。しかも自分は養子で、彼らには世話になっている立場だ。 それでも、彼女はここを離れたくなかった。いや、ここに残れる可能性があるならそれに賭けたかった。 ――ここには、越前がいる。 しかし自分の想いを自覚したからだけでは決してない。ここには、大切な人達が沢山いるから。 今度こそ、取り零したくない。 の言葉に沈黙した両親は、どちらともなく息を吐いて母親が零れるように微笑う。 「良かったわ、それが聞けて。ね?お父さん」 「そうだな…」 嬉しそうに話す母に、父も同意する様子には安堵も含まれているようだった。 が少し不思議に思っていると、母親が改めて告げる。 「安心してさん。転校はしないから」 「え?だって異動になったって…」 「異動になったのは確かだけど、勤務先は今までと同じなの。簡単に言えば、この地区の専属になったからあと数年は、引っ越しすることはないわ」 それを聞いて、彼女の思考が一度停止する。 「え…でも、今朝は心の整理をしとけって」 「あら、そんなこと言ったの?もうっお父さんは口下手だから」 「いや…」 戸惑うに、母親は驚いた表情の後に少し怒ったような口調で父親へと振り向く。 穏やかな性格の母と違い、父は厳格な印象の人だった。その所為で気難しい人と思われがちだが、単に人付き合いが苦手なだけだと母とは知っている。 そんな父親が、記憶の中では明るい印象しかない彼女の実の父親――相楽克海と親友の仲だったことが今も少し信じられなかった。逆を言えば、正反対だから気が合ったのかもしれない。 母の指摘を流しながら、父がを真っ直ぐ見つめて告げる。 「ここに住み続けるという事は、今までと違ってこの地に根を張る事――心を許す事だ、良いのか?」 今までのように、いつ転校しても良いように壁を作っていた時とは違う。 離れる覚悟ではなく、馴染むことが出来るのかと訊いてくる父親に。 は一度目を丸くして、穏やかに微笑った。それこそ、今更だ。 「はい。ここでも、良い友人達と出逢えたから」 そう告げる彼女に、両親は驚いていたけれど。 二人共どこか嬉しそうに、母はまるで少女のように。父は目を伏せるように笑った。 それを見たも驚いたけれど、大事にされていることが感じられて少し恥ずかしく思いながら。 自分は本当に、倖せ者なのかもしれないと。 そんなくすぐったいことを思った。 †END† 書下ろし 11/10/08 |