時刻にしては、薄暗い放課後。
 朝から漂っていた雨雲は厚さを増し、授業が終わる頃には強い雨が降り出していた。
 今は大分弱まっているが、止む気配は一向に見えない。そして傘を忘れたは、足止めを食らっていた。
 天気予報を見忘れたのは痛かったなと、昇降口で降り頻る雨を見上げて内心で呟く。
 止むのを待とうと教室で時間を潰していたのだが、それも飽きたし雨も少し弱まったから帰ろうとしたのだが、この中を帰れば確実にびしょ濡れで風邪を引いてしまいそうだった。
 そう思って、視線を足元へ落とす。判っていた。天気予報なんて見てもいなくても同じだ、傘を忘れた理由はもっと別にある。
 今朝の出掛けの父親の言葉が、今日一日中・頭から離れなかった。だから、菊丸にも元気がないと心配されたことが我ながら情けない。
 けれど彼が屋上に来てくれて、隣りにいてくれて安心出来たのも確かで。

 そういえば、前にも…――

 昇降口の扉から一歩出て、校舎の屋根だけが水滴との接触を遮り、雨音がやけに鮮明に耳へ届くのを聴きながら。
 は前にも、こうして傘を忘れて濡れていたことがあったのを思い出す。
 あの時は公園で雨宿りをして、そこには白い子猫がいて、独りでいる姿がまるで自分のように見えた。
 そんな時、柳が現れて傘を差し伸べてくれた。
 思えばあの日から、自分の時間は動き出したんだと。
 まるで動くモノは雨だけで、総てが止まったような景色に吸い込まれるように足を踏み出した時。
「――先輩っ」
 唐突に聴こえた声と後ろへと掴まれた腕に、視界がクリアになる。
「雨に濡れたいんスか?」
「えち、ぜん…」
 振り返ると、そこには少し不機嫌そうな表情の越前がいた。
 いつの間にいたのだろうと、そんなことをぼんやりと考えていた彼女の腕を放して、越前が続ける。
「傘、持ってきてないんスか?」
「あ、うん…忘れちゃって。越前は、遅いね?」
「…この雨で部活が室内練習だったスから」
 内心で焦りながら表面で笑顔を作ると、少しの間の後に彼は横に並んで持っていたビニール傘を開く。
 その動作を眺めていると、の頭上に翳す。
「え、何…」
「帰らないんスか」
「帰るけど…」
「確か、帰り道は一緒っスよね」
 戸惑う彼女に気にした様子もなく、越前は普段通りに尋ねる。その内容の終着点に気づいて、は慌てて手を振った。
「いやっいいよ!私は止むまで待つから」
「…止まなかったら?」
「……濡れて帰る」
「それで風邪引かれたら、俺の目覚めが悪いんスけど」
「う…」
 一つの傘を二人で差して帰ったらそれこそ濡れてしまうと、彼女は断ろうとしたのだが。
 越前には、彼女をこのまま一人で帰らせることの方が気が引けると譲らないから。
「じゃあ、お願いします」
 観念してお願いすると、越前が一瞬・不敵に微笑んだような気がして。
 けれど歩き出す彼に気づいて、その後をついて行きながらは視線を落とす。
 いつもなら、自分からお願いして強引に傘に入れて貰っていただろう。
 それは自分でも判っていたし、不自然なことも判っていた。
 どうしてこんなにも、戸惑ってしまうのだろうと思いながら。
 心の片隅で、今朝の越前の顔が過ったことを思い出していた。




















 二人で一つの傘を差しながら、校門を出てから。
 やはり越前相手では会話が弾むこともないが、息苦しいものではなく。
 安心はするけど少しの緊張を帯びた会話の流れで、傘を持った越前が振り向いて訊いてくる。
「そういえば、何で先輩は残ってたんスか」
 授業が終わってから大分経っていたから、部活動があった自分と違ってなぜこんな時間までいたのか彼には気になったのだろう。
 その質問に、一度瞬きをしたは目を逸して頬を掻く。
「あー…傘を忘れたから、止むまで待とうかと思って」
「気長過ぎっスよ……不二先輩たちとかは?」
「え?先に帰ったけど?」
「ふーん…」
 なぜそんなことを訊いてくるのか、には判らなかったが取り敢えず答えると、彼は何かを思考するように呟いただけだった。
 確かに不二や菊丸は傘を持っていたから、忘れたと言えば一緒に帰ってくれたかもしれない。けれど彼女にはそれが気が引けた。
 それからなんとなく、雨に関係なく、ただぼんやりとしていたかったのかもしれないと。考えながら歩いていたから、後ろから自転車が来ていたことに気づいていなかった。
「先輩」
「へっ――」
 彼女の傍にはかなりの水溜まりがあった。自転車が通過すれば、その走る速さも比例して跳ねる水がへと向かうことは、その水溜まりに気づいていれば予測出来る。
 それに気づいた越前が彼女を呼びながら、腕を掴んで自分の方へと引き寄せた。
 その手は思いの外力強く、勢いでの肩が越前の胸元へと当たる。
「大丈夫っスか?」
 呆然としていたところへ声をかけられて顔を上げると、越前の顔が近くて驚く。
「えっ何?」
「いや、水掛からなかったかと…」
「あ、うん。お陰で掛からなかったよ、ありがと」
 心配する彼に、有り難さと申し訳なさの混じる思いで慌てて身を引く。勿論、笑顔も忘れずに。
 それに対して越前は少し沈黙したけれど、深くは訊かずに歩き出す。
 暫く歩いて、大きなマンションが並ぶのが見える大通りへ出たところでが指を差した。
「あ、あそこだよ。あの端のマンション」
「…大きいっスね」
「そっかな?」
 確かに今まで引っ越したマンションの中では一番大きいかな、と思いながら雨足の弱まった道を二人で歩く。
 その歩く速度が、互いに遅いのは気のせいだろうか。
 マンションの玄関下まで来て、は越前へ向き直って笑顔を向ける。
「ありがと、越前。ゴメンね、遠回りさせちゃって」
「別にイイっスよ。それより…」
 差していた傘を畳んで素っ気なく返した越前は、顔を上げて彼女を真っ直ぐ見つめた。
 その視線に、ドキリとする。
 その、テニスの試合で見せるような。いや、それ以上に意志が籠められた眼差しにの身体は硬直する。
 絡まった視線に導かれるように。越前は傘を持っていない左手を持ち上げて、彼女の髪に触れた。
 普段に比べて、柔らかい髪は雨に濡れ、しっとりとした感触に彼は指を滑らせてから告げる。
「――髪、乾かして下さいっスよ。風邪引くから」
 言って離れていく手に、が視線を越前へ戻すと。
 昇降口で見せた笑み以上に、それは不敵に、鮮やかに微笑って去っていった。
 彼の後ろ姿を呆然と見送り、は徐ろに越前が触っていった右側の髪を撫でた。その時に触れた耳の熱さに、自分の顔も熱くなっていくのを自覚した。
 それに伴って、目頭も熱くなる。
 恐らく彼も気づいていたのかもしれない、が沈んでいたことを。
 だから一緒に帰ってくれて、心配をしてくれたんだと。
 まるで浮上するかのように沸き上がっていく感覚に、胸が痛い。

 いつからだったか、彼の反応が気になるようになったのは。

 いつだったか、もう彼には抱きつけないと思ったのは。

 いつから、嫌われたくないと思うようになったのか。

 それは緩やかに降り続いた雨が止んで。

 通り過ぎるかのようにいつのまにか――

「好きに、なっちゃってたんだ…っ」
 俯きながら、髪を押さえていた右手を握り締めて。
 は絞り出すように、自覚した。