自分達以外いない、静かな保健室。 ベッドにいるは、蹲ったまま黙ってしまった。 何かまずいことでも言ってしまったかと、越前が不安になり始めた時。毛布に顔を埋めているから少しこもった声で彼女は呟く。 「…ありがとう」 「え…?」 振り向くと顔を上げたが少し恥ずかしそうに、けれど穏やかな表情で笑っていた。それを見て、彼は無意識に安堵する。 「なんだか、越前にそう言って貰えて、気が楽になった」 「いや、俺は何も…」 思ったことを言っただけで、自分がお礼を言われる立場ではないと、越前は少し俯いた。 寧ろ、彼にとっては腹立たしいことではあるのだから。 再び落ちた沈黙を破ったのは校内に響き渡るチャイムで、授業が終わったことを知らせる。 それにお互い目を合わせて、越前が静かに椅子から立ち上がる。 「じゃあ、俺は戻るから…」 そう言って出口へ向かおうとすると、が私もとベッドから降りようとするから彼は思わず立ち止まった。 「え…何?」 それを不思議に思ったのか、首を傾げる彼女へ冷静に尋ねる。 「先輩、授業中に倒れたんスよね?」 「ん?まぁ、ふら〜としただけなんだけど…」 「先生には診て貰ったんスか?」 「うん…一応は。用事で出て行っちゃったけど……」 「で、さっきも倒れかけたっスよね」 「そうでした…」 本人は心配しているから真面目な表情だったのだが、越前の淡々とした質問に段々、自信がなくなってきたのか。最後には目が泳いでしまっているに、溜め息を吐いた後にはっきりと告げた。 「大人しく、寝てて下さいっス」 「ハイ…」 後輩とはいえ、注意されたことにも反省しているのだろう。ベッドの上で正座して小さくなる先輩を見て、越前は思わず可愛いと思ってしまった。 勿論、それは隠したままがベッドに入るのを見届けて(途中、やっぱり今日の越前は怖いよーと言っていた気がする)、保健室を出ようとした時。 「――越前」 呼び止められ、振り返ると布団から小さく顔を出したが微笑んで言う。 「君もケガ、気をつけてね」 それがとても優しいものだったから、越前は直視出来なくて背を向けて頷くしかなかった。 廊下を出て、静かに扉を閉めてから彼は立ち止まる。 そして何か思案するように扉を見つめていたが、やがて諦めたようにその場を離れようとする。 しかし、前方から見憶えのある人物が歩いてくるのが見えて立ち止まった。 「やぁ、越前」 声をかけてきたのは先輩である不二で、いつもの笑みを湛えた表情で目前に立ち止まる。 「……は?」 恐らく、保健室から出てくるのが見えていたのだろう。当然のように訊く不二に、越前も普段通りに答える。 「…ベッドで休んでるっスけど。先輩は?」 「が授業中に倒れたって聞いたから来てみたんだけど、越前に先を越されたみたいだね」 同じクラスで今来たということは、男女別の授業だったのだろう。 言葉の割りに全く悔しそうではない彼に、特に腹を立てる訳でもなく越前は目を逸らした。 「別に、俺は勝ったなんて思ってないっスよ」 予想外の言葉だったのか、不思議そうな不二に向き直って告げる。 「寧ろ、対等じゃないっスか」 「…どういうことかな?」 「越えるべき対象が、てことっスよ」 本当に判っていないのか、それともわざとなのか。どちらにせよ、こちらの出方を待つ彼に対して力強く答えると不二は沈黙で先を促す。 それに先程まで一緒にいたの表情や言葉を思い出しながら、越前がゆっくりと告げる。 「…今更っスけど、先輩の立海に対する信頼は深いし、俺らがどうこう出来るモノじゃない」 「そうかもしれないね」 「でも、それに縋ったままじゃ、先輩は前に進めない」 「………」 断ち切りたい、訳ではない。 それはきっとも望んではいないだろうし、先程の言葉も嘘ではない。 彼女を護ってきた立海の人達に感謝はしている。 ただ、悔しいのだ。彼女の信頼者の中に自分がいないであろうことが。 それは恐らく、不二も同じ筈と越前は思う。 「今は自分もいるんだって意味でも、俺達はそれを越えなくちゃならない」 まるでその言葉に力を注ぐように、真っ直ぐ伝える越前に、目前の不二は少し冷ややかに見つめていたかと思うと。ふっと笑って口を開く。 「……今日は随分、饒舌だね越前。だから対等だと?」 「そりゃ…ちょっとは出遅れてるっスけど、これからだとは思ってるスから」 彼の態度に越前は意を介さず、教室へ戻ろうとその横を通り過ぎていく。 それに不二が呼び止めることはなかったけれど、越前は不意に立ち止まって呟く。 「それと」 ゆっくり振り返ると不二の後ろ姿が見え、その背に越前は声をかける。 「俺、前に先輩が自分達みたいになるなって言ってた時、釘刺されたと思ってたスけど…」 あの、関東大会の準決勝でのこと。 倒れたを立海の柳が連れて行く背を見つめながら、隣りにいた不二が言った言葉。 『君は、僕らみたいになっちゃダメだよ』 越前はそれを、"彼女を好きになるな"という意味で捉えていたが、それは違っていた。 そんな簡単なことでは、なかったのだ。 言葉を切った越前へ、不二がゆっくりと振り向く。 それを確認して越前は真っ直ぐ彼を見据えてから、告げた。 「――ならないっスよ。不二先輩達みたいには」 彼女を、を自分に縛りつけるようなことは。 柳が望んでいることは、恐らく不二も、を護るということだけではなく。自分がいなければいけないと、仕向けているように思えた。 最後に辿り着くのは、自分だとでも言うように。 だけどそれは、間違っていると越前は思う。少なくとも、自分が望んでいることはそんなことでない。 それを伝えるように不二を見つめた後、越前は踵を返して廊下の先へ消えていく。 その後ろ姿を、向き直って眺めながら。 「……ふうん」 呟いた不二の表情は、挑まれた勝負を受け入れたように、不敵に微笑っていた。 †END† 書下ろし 11/04/21 |