は天井を見つめて、溜め息を吐いた。
「…何、やってるんだか」
 誰もいない、保健室のベッドの上で彼女は虚しくゴチる。
 昨日――正確には今日の日付になるのだが、勉強しようと思ってそのまま机の上で寝てしまった所為では体調を崩していた。
 朝はそれほど酷くはなかったから不二に気づかれることなくやり過ごせたが、体育の授業で一気に悪化したらしく不本意ながら倒れてしまった。
 保健室へは同じく授業を受けていた皆森に付き添ってもらい、今に至るという訳だ。
 情けないと思いながらも、が静謐で独特な香りのする保健室をどこか懐かしい気持ちで見渡していた時、室内の出入口である扉が開く音がした。
 来た時に仕事で部屋を抜けた保健医が戻ってきたのかと思い、起き上がったは身動きを止める。
「……越前?」
 呟くと、同じように越前も驚いていたが、どこか納得したような表情をして室内へ入ってくる。
「…やっぱ具合、悪かったんスね」
「え?」
 後ろ手で扉を閉めながら言う越前に、何で知っているのかと不思議に思っていると。ベッドの近くまで来て止まった彼が、少し目を逸らして呟く。
「朝、昇降口で見かけたんス…」
「そう、なんだ」
 見られていたことの恥ずかしさと、気づかれていたことへの嬉しさで戸惑いながらもそれを隠そうと越前へ訊き返す。
「えと…越前はどうしたの?保健室に来たってコトは、具合悪いとか?」
「いえ、ちょっと指を切って…」
「えっ!?」
 あっさり答えて切ったという右手の指を見せてくる彼に、は驚いてベッドから降りようとする。
「ちょっ…まだ血が出てるよっ早く手当てしないと!」
「えっ?いや、自分でするから先輩は…」
 いくら利き手ではないからといってもキチンと治療してあげないと、と思い越前へ歩み寄ろうとした時、ぐらりと視界が揺らいだ。
「――先輩っ!?」
 気づいた時には身体が傾いていて、咄嗟に支えてくれた越前の腕の中にいた。
「…大丈夫っスか?先輩」
「あはは…ごめん。ありがとう越前」
 再び情けないと思うのを隠すように苦笑しながら礼を言うと、何か気に障ったのか。を立たせた彼は少し怒るように言った。
「これくらい自分でやるから、先輩はムリしないで休んで下さいっス」
「う……はい」
 後輩に怒られたことで小さくなりながら、は渋々ベッドに戻ることにした。それを見届けてから、越前は保健室に常備されている救急箱を探し出し、中央に置かれた長机へと移動する。
 その様子に一度は布団へ入ったものの、越前が気になっては上体を起こして声をかけた。
「薬つける前にちゃんと水で洗いなよ、越前」
「…了解っス」
 そこは素直に従って水道で指を洗った越前は、次にへと釘を指す。
「先輩も、ちゃんと寝て下さいっス」
「だ、大丈夫だよ。これくらい…」
「ダメっス」
 念を押されて、何だか今日の越前は怖いなーと思いながらも彼女も従って横になる。
 見慣れない天井を見つめ、耳には越前が手当てをする音が届く。
 先程と比べ、どこか安堵を憶える感覚に、は笑みを漏らした。
「…どうかしたっスか?」
 それが彼にも聞こえたのか、尋ねてくる越前に彼女はいやーと呟いて話し出す。
「保健室のベッドなんて久し振りだなぁ、と思って」
 懐かしむように呟くと首を傾げる気配がして、は少し頭を動かして越前の方を見る。
「ココじゃなくてね。立海にいた時は、よく保健室のお世話になってたなーって」
 少し驚く越前は、溜め息に変えて救急箱の蓋を閉じた。
「昔も、無茶してたんスね」
「あ、失礼だなー。これでも落ち着いたんだよ?」
 皮肉めいた彼に、笑いながら反論したけれどは沈黙した。
 不思議に思っただろう越前に、意を決したように再び上体を起こして彼女は呟く。
「……昔はね、こんなに明るくはなかったって言ったら、信じる?」
 笑顔だったが、声音の変わった彼女の問いに、越前は注意ではなくベッドの横へと歩み寄った。
「…本人が、そう言うなら」
「ホントー?」
 苦笑するは越前が傍にあった椅子に座るのを確認して、話を切り出した。
「知ってるだろうけど、私は引っ越しが多かったからね。加えて昔の火事でしょう?…外面は良かったけど、心は閉ざしたままだったの」
 自分で言うのもおかしいなと思ったが、それは今だから言えるのかなとは内心で苦笑する。越前はただ、黙って聞いていた。
「そんな私を引き戻してくれたのは、やっぱりテニスで――立海の皆だった」
 微笑みは無意識に出てきて、聞いている彼が今・どう思っているのか。
 その表情は見れなかったけれど、どうしても伝えたくて、聞いて欲しかった。
 なぜかは、今の彼女にはまだ判らなかったけれど。
「今の私があるのは蓮二達のお陰なのに、恩返しも出来ないままだったな…」
 沢山のことを貰ったというのに、自分は彼らには何も返せずにここへ来てしまったことが、今になってには心残りだった。
 落ちる沈黙に、彼女が少し打ち明けたことを後悔しかけていると傍の越前がぽつりと呟く。
「……大丈夫…スよ」
「え…?」
 声に顔を上げると彼は目を逸らしたまま、普段より弱い声音で紡ぐ。
「その、立海の奴らのお陰で、今の先輩があるなら……それだけで先輩はもう、充分・返してるっスよ」
 彼らのお陰でが変わったというなら、彼らの望みに彼女が応えたからで。
 だからその時点で、彼女はもう恩返しをしているのだと。
 そう言ってくれる越前に、は目を丸くして驚くしかなかった。
 見つめた先の彼はまだ目を逸らしたまま、更に小さく呟く。
「……その、お陰で今の先輩がいるなら、俺は立海の奴らに感謝しない…こともないっス」
 最後の方は、にも聞こえないくらいの声で恥ずかしそうな越前に、彼女はやはり驚くしかなくて。
 その言葉の意味を理解していく内に、何とも言い表せないものが込み上げてきて、身体を縮めて膝上の毛布に顔を埋める。
「えっ…どうしたんスか先輩?」
「…な、何でも、ないよ」
 気づいた越前が慌てて訊いてくるけど、答えることが出来ないはただ顔を埋めたまま頭を振る。
 けれど、この心情を言葉で表すとしたら"嬉しい"というのだろうと。
 彼女はどこかで判っていたのかもしれない。
 彼ならきっと、自分が欲しかった言葉を言ってくれるだろうと、心のどこかで望んでいたことも。