誘われるまま、俺はフェンスに凭れるようにして腰を下ろした。
 隣りには、同じように坐る先輩。
 俺に気を遣ってなのか、何も言わずただ楽しそうに屋上からの景色を眺めていた。
 それだけでも何か満たされたような気分だったけど、先程のことが胸をざわめかせる。
「……さっきの…」
「え?」
 自分でも驚くほどか細い声で呟けば、横の先輩が不思議そうに振り向く。
「告白、されたんスよね…さっきの男に」
 視線は逸らしたままで訊けば、先輩が驚いてるのが気配で判った。
 何で、わざわざこの話題を出すのか。自分で自分が腹立たしかった。
 話題なら他にいくらだってあるはずなのに。
 黙って返事を待つ俺を見つめていた先輩は、顔を再び真正面へ向ける。
「まーね。断ったけど」
「それって、柳って人がいるから?」
 普段通りの明るい対応に、俺は思わず訊いてしまった。
 当然、先輩は驚いて怪訝な表情を向けてくる。
「え?…何でそこで、蓮二が出てくるの?」
「いや、なんとなくっスけど……」

 『だって、先輩には不二先輩がいるじゃない』

 確かに、普通の奴から見たらそう思うかもしれない。
 自分も前はそうだったけど、それは違っていた。
 そう思い始めたのは、関東大会で立海メンバーと遭遇した時。
 そして柳蓮二という人物が、彼女にとって重要なんだと確信したのは、あの合宿での最後の夜だ。
 あの時、劣等感と悔しさに駆られたのを憶えている。
 どう足掻いても埋めようのない、先輩と彼らとの繋がり。
 余計なことを言ったかと、内心で動揺を隠していると。
 先輩は目を丸くして少し黙考すると、苦笑しながら悪戯をするように訊いてくる。
「そういう越前こそ、どうなの?」
「…何がっスか?」
 誤魔化したと思いながらも尋ねると、先輩は更に笑みを深めた。
「君に告白してきた女の子。断った上に、泣かしちゃったんだって?」
「な…!それ、誰から聞いて……」
「さて。誰でしょう?」
 驚く俺に、愉しそうに先輩は笑う。
 誰なのか予想できたけど、俺は敢えて何も言わず離した背を再びフェンスへ凭れさせた。
「俺はただ断っただけで、あっちが勝手に泣いたんスよ…」
 疲れたような口調で俺が弁解すると、先輩はんー…と唸りながら相変わらず苦笑い。
「でも、キツイ断り方しちゃったんでしょ?」
「………『興味ない』って…」
「………もっと考えて断ろうよ、越前」
 視線を逸らしてその一言を伝えれば案の定、呆れるようにツッコまれてしまった。
 けれど俺にはそれしか思い浮かばなかったんだから仕方ないと、内心でゴチた。
 僅かに思考をとばしていると、横の先輩が息を吐いて空を見やる。
「ダメだよ越前。女の子には優しくしなきゃ」
 振り向いて苦笑する彼女にそんなことを言われ、俺は思わず顔を顰める。
「そんなの俺の勝手っスよ。別に好かれようとも思わないし」
「…そうだね。越前はそうかもね」
 自分の返答に納得されると、それはそれで複雑なものがあったけど。
 先輩は少し沈黙して考えるように下を向き、呟いた。
「でも、優しいよね。越前は」
「え?」
 驚く俺に先輩は明るいというより、穏やかな笑顔だった。
 それも気になったけど、先輩の言葉が不思議で訊き返す。
「…そーっスか?」
「うん。判りにくいけどね」
「……褒めてるんスか?それ」
「褒めてるよ」
 納得できてない俺に、先輩は笑ってまた空を仰ぐ。
「…でも、そうだね。もう少し他人への配慮を憶えないと、君に大切な人が出来たら、いざって時に優しく出来ないよ」
 どこか淋しそうに、諭すように言う先輩が本当に不思議だった。
 それは妙な説得力があり、先輩がそれを言わなければ俺はきっとその言葉通りになっているだろうとも思えた。
 いやそれ以前に、大切とはどんな人間のことを言うのか。
 …先輩にも、そういう人がいるのだろうか。
 そう思った時、俺は無意識に声にしていた。
「先輩にはいるんスか?……大切な人って」
 抑揚のない声で問えば、先輩は驚いたけれど、それは微笑みへと変わっていく。
「――…いたよ」
 答えた先輩は、これ以上ないくらいに酷く穏やかに、そしてやはり淋しそうに微笑っていた。
 それはどこかで、見たことのある笑顔。
 焦がれるような衝動と、この笑顔を作らせている者への悔しさに、俺はただ先輩を見つめるだけだった。
 先輩が大切だと言うモノを、自分が知っている範囲で考えて、辿り着いた答えはやはり――立海大附属。
「それってやっぱり、あの立海の奴らっスか?」
 あの雨の日にも感じた焦燥に、身体の機能が働いていないかのように。
 自分でも驚くほどに無表情で、目を丸くする先輩を真っ直ぐ見つめる。
 けれど先輩はなぜか不思議そうな顔で、首を傾げながら。
「いや?そうじゃないんだけど――…あーまぁ、そっか。アイツらもそう、言えるのかもしれない……」
 独り言のように呟いて、先輩の表情はまた穏やかな、微笑みだった。
 不意にまた、酷く胸に不安が過り、浮かぶのは疑問ばかり。
 それが自分に対してなのか、先輩に対してなのか判らないまま。
 ただどうしようもできない感情を、紛らわせる為なのか。
 伸ばした手は、先輩の腕を弱々しく掴んでいた。
「?……越前?」
 その行動に先輩は驚いた顔で、それでも俺の異変に気づいてか、優しく問いかけてくる。
 風が吹き抜ければ、先輩の腕を掴んだ手の甲を揺れる髪がくすぐる。
 顔を上げれば、すぐ近くに先輩の顔があった。
「ねぇ……先輩は俺のコト、ちゃんと見てる?」
 その澄んだ瞳は、本当に俺を映してくれているのだろうか。
「…ナーニ言ってるの。見てるよ、ちゃんと」
 口を衝いて出た言葉に、先輩の声は明るいものの、表情はとても真面目なモノだった。
 それでも俺は、まだ納得できない。
「それって、選手としての俺?それとも…」

 ――――オトコとしての、俺?

 言いかけて、俺はハッとした。
 急に言うのを止めた俺に、先輩は怪訝そうな顔をしてたけど、追求することはなく。
 ゆっくりと立ち上がりながら、真っ直ぐに俺を見つめて言った。
 手から細い腕が、すり抜けていく。
「君は君でしょ――越前」
 覗き込むように告げられた言葉と姿に、呼吸を忘れた。
 この時、俺は理解した。何もかもを。
 背中に蒼い空を背負い、長い黒髪と利発的な顔が視界を埋める。
 それは、あの日に見た光景と同じ。
 初めて会った時に、俺が思わず見入ってしまった姿と。

 ――あの日から、俺は既に囚われていたのかもしれない――

「じゃあ私、次・移動教室だから先行くね。そのままサボっちゃ駄目だよ、越前」
 先輩はそう言って、坐ったままの俺を置いて屋上から出て行った。
 それを半ば呆然と見送ってから、俺はゆっくりと立ち上がる。
 その、先輩が消えた扉を見つめたまま、俺は身動き一つしはしなかった。
 ただ、自覚した己の想いと向き合って、受け入れようとするだけだった。
 そしてそこに佇んだまま、俺は空を仰ぎ。
 屋上を吹き抜ける風を感じるかのように。
 広がる空の蒼さから、逃げるかのように。
 ゆっくりと、目を閉じた。

 なぜあの雨の中で、先輩を開放したいと思ったのか。
 なぜあの夕暮れに、無性にも繋ぎ留めたいと望んだのか。

 ――――そうか。

 俺はあの人が、先輩が。





 『 好きなんだ 』






 †END†





書下ろし 11/01/08