Opus.4


 越前の申し出でが赴いたのは、彼の家の裏にあるお寺だった。
 夕暮れに照らされたそこにはお寺にそぐわない、テニスコートがあった。
 それを見た彼女は、一気に興味津々な表情になる。
「すごーいっ越前、家にコートがあるんだぁ」
 コートへ駆けていくに、内心で苦笑しながら越前は彼女の傍へ寄る。
 中央に張られたネットへと手をかけて、彼へと振り返るはいつものように明るく、楽しそうに微笑う。
「それにしても、南次郎おじさまが住職してるなんて驚いたよ」
 側に建てられている鐘を見上げなら、驚きの中に懐かしさを滲ませる彼女から目を逸して越前は呟く。
「代理っスけど……俺は、先輩が親父と知り合いだったのに驚きっス」
「ははっ。私っていうより、父親と知り合いだったから…――それで?」
「え…?」
「何か用があるんでしょ?私に」
 首を傾げて訊いてくるに、越前は一度迷った素振りの後。
 持っていた二本のラケットの一つを差し出した。
「少しだけ、やっていかないっスか?」
「え……良いの?」
 少し驚く彼女に頷くと、どこか戸惑ったような表情でラケットを受け取ってくれたは肩を慣らしながら位置につく。
 お互いに向き合ったところでがいつでもイイよー、と腕を振るので越前は頷いてサーブを打ち込んだ。それを難なく彼女も打ち返す。
 暫く打ち合っていると、が何かを思い出したように笑った。
「なんだか、懐かしいなぁ」
 その呟きに、不思議に思いながらボールを打ち返すと、彼女もそれを打ち返しながら答えた。
「ほら、初めて会った時も。こうして制服のままテニスしたよねぇ」
「そういえば…そうっスね」
「もうあれから、結構経つんだねー」
 二人はテニスをしながら三ヶ月前の出逢った日のことを思い出す。
 あの時はからだったが、初めて会って無理やりに誘われてテニスをした。
 最初はおかしな人だとしか越前は思っていなかったが、彼女を知るにつれて本人に自覚はないが惹かれていった。そして、彼女を知るにつれて判らなくなった。
 今だって、の考えていることが判らない。
 だからという訳ではないが、何かきっかけが欲しくて越前はテニスに誘った。
 そして眼の前で楽しそうに打ち返してくるに、なぜか悔しくなった越前は呟く。
「…本当に、テニス辞めるんスか?」
 打ち返してから訊くと、彼女は驚く代わりに動きを止めて越前を見つめた。打ち返さなかったボールが彼女の後ろへと転がる。
 そのボールをまるで機械のように振り返って見て、はゆっくりと取りに行きながら答えた。
「……そろそろ、潮時かなって。勉強に専念しようかと思ってるの――それに」
 コートまで戻りボールをニ・三度バウンドさせてから、彼女は続けた。
「もう、代わりにする必要もなくなったから」
 まるで総ての役目を終えたかのように言う彼女に、越前は何とも言えない、苛立ちのようなモノが沸き上がった。
 確かにあの雨の日、弟の為に苦しむを開放したいと越前は心から願った。
 だからもういいと、彼女に伝えた。でもそれは、そんな風に諦めさせる為に言った訳ではないのに――
 それでも伝えるべき言葉が見つからなかった越前は、ただボールを全力で打ち返すことしか出来なかった。
 急に球速の上がったボールに気づいて、も全力で食らいつく。
 それからは自然と、二人は真剣に打ち合いをしていた。制服の所為で普段より力は劣るが、久しぶりに本気のテニスをした。
 だが以前に比べ、越前の実力がを上回っているから彼女は追いつくので精一杯だった。
 そして、遂に追いつけなくて越前のボールが彼女の横を抜けた時。
「――嘘つき」
 越前の呟きに振り返ると、彼はまるで怒るように真剣な表情をこちらへ向けていた。
「じゃあ何で、そんな悔しそうなカオしてんスか…」
「越ぜ…」
「何で、そんな楽しそうにテニスしてんスかっ?」
 言われてはハッとしていた。恐らく、自分がどんな表情でテニスをしているのか気づいてなかったのだろう。
 悔しい表情をしていたのは、越前の放ったボールに追いつけなかったから。
 楽しそうにしていたのは、テニスをするのが本当に好きだからだ。
 それに越前の言葉で気づいて、は呆然とするしかなかった。
 彼もそれが判ったから言わずにはいられなかった。止まっていた足を動かして、ネットの近くまで歩み寄る。
「先輩には、色々事情とかあるんだろうし…止める権利なんて、ないっスけど」
 きっとそんな簡単に決めたことなんかではないと、越前にも判っていたが。
先輩が、ムリしてるトコなんか見たくない…」
 がテニスを辞めると言っているのを聞いた時。
 まるで彼女が遠くに行ってしまいそうで、不安になった。
「"俺は"、先輩と一緒にテニスがしたい」

 ――そう、これは俺の我が儘だ。

 本当はが苦しんでいるからとか、テニスを続けて欲しいとかそんなものは建前だ。
 ただ、彼女が離れていくようで嫌だった。繋ぎ留めておきたかった。
 そこまで言って、呆然とするに気づき越前は我に返る。必死だったとはいえ、変なことを言ったと思い返して眼を逸した。
「そ…それに、先輩が辞めて部活に来なくなったら、桃先輩達も寂しがるだろうし」
「……3年はもう引退だよ」
「遊びにくればイイっスよ。菊丸先輩とか来る気満々みたいだし…」
 我ながら苦しいことを言ってるなと思っていると、眼の前まで来ていたがいつものような明るい笑顔ではなく。
 夕陽に照らされ、とても穏やかな微笑みだったから越前は思わず息を飲んだ。
「遊びに行っても、イイの?」
「あ、当たり前っスよ」
 慌てて答えると、驚いた彼女はまた微笑んで一度眼を伏せた。
 そして徐ろに手を差し出してきた。
 一瞬、何のことか判らなかったが、思わず握り返すとは微笑って言った。
「ありがとう、越前」
 それは、涙を堪えているような声で、越前は何も言えなかった。
 けれど今の二人には、それで充分な気がした。
 ただ夕暮れの中、芽吹くような流れる風に、身を任せていた。




 END...




書下ろし 10/10/28