夕暮れを迎えたテニスコート。
 そこで行われたのは、偶然出くわせた越前と切原の草試合だった。
 だがその試合内容はけして穏やかなモノではなかった。
 その為、テニスクラブへ駆けつけた真田達は困惑していた。
 駆けつけた一因である切原は、既に副部長である真田から制裁を受け消沈している。それは問題ない。
 困っているのは彼との過酷な試合の為か、疲れ果てて眠ってしまっている越前の対処法だ。
「で、どうすんじゃ?コイツ」
「うむ…」
 改めて尋ねる仁王に、真田はベンチに横たわらせた越前を見ながら唸る。
 本来なら彼らが悩む必要などなく、例えこのまま放っておいても目を覚ませば自力で帰れるだろう。
 けれど今の越前は、切原との試合で身体は疲弊している筈だ。
 切原の眼が充血していたのなら、尚更。
 体力的に無事に帰れるかを考えていた彼らに、その輪から外れていた柳生がさらりと述べた。
「大丈夫ですよ。手は打って置きましたから」
 片手に携帯を持って歩いてくる彼に、柳が振り返る。
「まさか…」
 柳生が打ったという手が何なのか気づいた柳は、僅かに動揺を見せたのだった。




















 柳生から連絡を受けたは、急いでテニスクラブのコートへと向かった。
 学校の設備と違い、管理の行き届いた広いフェンスに囲まれたコートの外。
 通路にあたる所で見慣れたユニフォーム姿の彼らを見つけ、次に彼女は驚いた。
 立海メンバーの傍、彼らの橙色のユニフォームとは反対色である青色のユニフォームを着た青学の一年生――越前がベンチに横たわっていた。
「越前っ!?」
 反射的に走り出したは立海メンバーの間を抜けて、越前へと駆け出す。
 心配してしゃがみ込む彼女に、彼らは僅かに驚いていた。
 予想しなかった訳ではないその反応に、唯一驚きもせず対応したのは傍に寄った柳だ。
「…大丈夫だ。疲れて眠っているだけだ」
 聞き慣れた声に、は彼の顔を見上げる。
 見慣れたその表情にまるで高まっていた何かが鎮まるように、落ち着いた彼女は改めて越前を見た。よく、眠っている。
 当然といえばそうで、学校から二時間は掛かるここまで走った上、あの切原と試合をしたのだから。
 そこでの視界に、横たわる越前の足が眼に入った。即座に眉に皺を寄せる。
 横目で切原を窺うとそれに気づいたのか、彼はバツが悪そうに眼を背けた。
 その頬は、赤く腫れ上がっている。
 それが物語っていたモノには驚きながら、すぐに小さく溜め息を吐いて立ち上がった。
「また、手を上げたの?真田」
 まるで幼い子供に問いかけるように。彼女は苦笑しながら歩き出す。
 王者・立海たるもの負けは許されない――それを体現しているのが敗北者への制裁だ。ただの平手とはいえ、屈辱であるのは確かだろう。
 逆をいえば、越前が切原に勝利したということに他ならない。
 対して真田も彼女にそれを知られることは望ましいことではないのか、言い訳に近い口調で告げる。
「掟だ。草試合とて、例外は許されない」
「だからって全力で殴ることはないでしょ。こんなに赤くなって…」
 切原の前まで来て、は真田に叩かれた頬へと手を伸ばし。
 そして、その頬を抓った。
「痛ててててぇっ!!」
 殴られた傷みに加え、思いっきり頬を抓られている切原は悲痛な叫びを上げた。
 一方で、身長差などものともせず手を放さない彼女は鋭い眼差しで言い放つ。
「……言った筈よね?彼らに手を出したら、許さないって」
 怒りを含んだ声音に、傷みから解放された切原は頬を擦りながら反論する。
「…っ言っとくっスけど、ソイツから喧嘩売ってきたんスからね!」
「買うにしても、もっと考えて行動しなさい。大事な試合前に故障でもしたらどうするのよ」
 駄々を捏ねる生徒を叱るように、だがその視線は変わらず冷徹で。言い返す余地のない切原は黙り込んだ。
 その光景がおかしかったのか、背後では丸井や仁王が笑いを堪えている。
「お前、昔からそうやってに怒られてるよな」
「う…うるさいっスよ!」
 からかう丸井に、切原はすっかり拗ねたようだった。
 その様子には呆れたように肩を竦めてから、制服のポケットからハンカチを取り出した。
「ほら」
「…何スか?」
「水で頬・冷やしてきなさい、桑原も。まだ痛むでしょ」
 戸惑う切原に、彼女はハンカチを押しつけながら後方にいた桑原にも声をかけて促す。
 彼もそれが良いと判断したのか、少し頬を腫らした桑原も強引ながらテニスクラブに設置されている水場へと切原を連れて行った。
 その背後を見送りながら、は苦笑気味に呟く。
「副部長も大変ね、真田」
「問題ない。幸村が戻るまで、躓く訳にはいかないからな」
 それは彼にとって、当たり前のことなのだろう。
 部長である幸村が安心して戻ってこれるように、それは絆のように戒律のように彼らの中で刻まれているのだ。
 真面目だなぁ、とそぐわないことを思っていると仁王が本題へと入る。
「それよりお前が呼ばれたってことは、このチビさんはに任しちゃってイイ訳?」
「うん。これからタクシー呼んで連れて帰ろうと…」
「えっ?だったらソイツはタクシーの奴に任せて、これから旨いモンでも食べに行こうぜ!」
 遊びに行こうと誘う丸井にその場の動きが止まった。
 それが唐突過ぎる驚きなのか、空気が読めてない呆れなのか様々あったようだが、その中では眼を丸くしてから静かに微笑んだ。
「今日は、このまま帰るよ…――約束もあるしね」
 次の彼らの沈黙は、驚きからくるものだった。
 今・彼女は自分がどんな表情をしているのか、判っていないのだ。
 それが判らないまま、はそれからと言い足して彼ら立海のメンバーを見据える。
「どうして、止めなかったの?」
 平坦な声で紡がれたそれに、彼らは僅かに顔を見合わせた。
「……俺達も連絡を受けて来たんだ」
「そう…」
 少し躊躇いを含めた真田の答えに、はそう返しただけだった。
 判っていたことだが確認しておきたかった。
 都大会の決勝戦が近い今、余計な怪我は避けたいところ。それは真田達も重々承知の筈だ。
 だがそこは血気盛んな彼らで、闘争心ゆえに勝負を求めるのは彼女にも判らなくはなかった。
 男の子というのは昔から、そういうものだ。
 そして、女の子は総じてその輪の中には入れない――
 横たわる越前の寝顔を眺めながら、その表情が少し寂しげなことに気づいたのは本人以外だった。
「…切原、充血したの?」
「そうらしい」
「まったく、無茶ばかりする」
 苦笑に近い問いに柳は普段通りに、真田は呆れ返ったように吐く。
 だが本心ではさほど心配などしていないことは、彼女も判っていた。
「……ウチのルーキー君もね」
 そしてその呟きは、の本心からのものだった。
 出会った時から生意気で、負けず嫌いで無茶ばかりをする。
 見ているこちらは落ち着かないと思い、そこで顔を上げて彼らを見た。
 もしかしたら、彼らも――柳も同じような想いだったのだろうか。
 そう考えてみると少し笑えてきて、彼女は空を見上げた。
 皆はともかく、柳がそんなことを思っていたとは考え難い。彼らに出逢って暫くはそうだったかもしれないが。
 だってそんな彼女を、彼らは受け入れてくれていたのだから。
「もう遅いですし、そろそろ行きませんか?」
 これまでの様子をずっと眺めていた柳生が、時計を見ながら切り出した。
「そうだな。も、気をつけて帰れよ」
「うん。ありがとう真田」
 声をかけてくる彼にが答える後ろで、丸井が文句を垂れている。
「え〜〜…折角、会えたのにー」
「決勝でまた会えるじゃろ。それより赤也達呼んでこい」
 急かされて仕方なく向かう丸井や、既に帰ろうとしている柳生達の中で真田が思い出したように振り返る。
「そうだ、。青学の連中に言っておけ」
「ん?何」
 首を傾げると、立海の――王者に相応しい立ち振る舞いで彼は告げた。
「次の試合、必ず勝つのは我ら立海大だとな」
 それを聞いたは少しだけ、淋しそうな表情をした。そして胸の内で呟く。

 ――…その言葉、君達の隣りで聞きたかったかな…。

 けれど彼女は顔を上げて、不敵な笑みを浮かべて言う。
「私からも、代わりに言わせて貰っていいかな」
 凛とした佇まいを纏い、流れてくる風さえ我が物にしたような。
 その身に染みついた狡猾な微笑みで言い放つ。
「悪いけど、勝つのは私達・青学だよ」
 それを聞いた彼らは、今日一番の驚きの表情を見せたような気がする。
 だがそれも一瞬のことで彼らも選手、ライバルに向ける表情で微笑って応えてくれた。
 久し振りな良い緊張の中、これで良いのだと、は無意識に言い聞かせた。
 そして立ち去っていく彼らの背中を見送り、ふと眼にした柳の背中になぜが声がついて出ていた。
「――…蓮二っ」
 その声に立ち止まって振り返った柳は、言った。
「何だ?」
 いつもの抑揚のない、けれど微かに優しさの帯びた声で。
 いつも傍にいてくれたかつての同級生は、何も変わらずそこに立ってくれている。
「…ううん。何でもないよ」
「そうか」
 はその事実をかみ締めて、穏やかに微笑った。
 それを見た柳も何も訊かずそれだけ答えて、彼らの後を追って去っていく。
 遠ざかっていく背中が完全に見えなくなった頃。
 夕焼け色に染まる静まったテニスクラブで、は僅かに保っていた表情から笑みを消し。
 誰もいなくなった――いや、誰も見ていないその場でゆっくりとしゃがみ込み。
 彼女はそのまま、暫く動かなかった。





 END...




書下ろし 10/03/28