それは、職員室からの帰りだった。 連日の欠席で心配をかけたであろう担任へ、挨拶に行った後。 廊下へ出た私に話しかけたのは、男子テニス部顧問の竜崎先生。 「もう大丈夫なのかい?」 生徒の姿も殆どない、朝の静謐な廊下で。 まるで待っていたかのように、先生は壁際で腕を組んだまま訊く。 私は大して驚かずに緩慢な動きで向き直り、軽く頭を下げた。 「はい、もう体調も回復しましたから。ご心配かけてすみません」 普段の微笑に苦笑を加えながら申し訳なく謝る。 担任でなければ私の在籍は女子部の方にあるから、自分が休んでたことなんて顧問ではない竜崎先生が自然に知ることはないと思う。 だからきっと担任か女子部顧問に訊いたか知らされたんだろう。一日とはいえ、病院に掛かってたことも。 経験上、大人に対して体面を取り繕うことに慣れた自分は、生徒を教育する立場で私達の様々な面で世話をしなければいけない教師でも手を煩わせたことに申し訳なく思ってしまう。 その反面でなんて子供らしくない子供だろうと、私は内心で自嘲する。 だってそれは、良い子を演じながらも相手を拒否しているのも同じなのだから。 けれどまるでそれを見越していたかのように、先生は苦笑するように溜め息をついた後で言った。 「謝るなら私にじゃなくて、心配してたウチのレギュラーどもにしとくれ」 「え…?」 聞かされた言葉の意味がすぐには判らず、思わず顔を上げて眼を丸くする。 急に現実に戻されたような感覚に頭がついて行かない。 それを見て仕方ないとばかりにまた溜め息をつく先生は、私へと向き直って告げる。 「何があったのかは知らんが、皆・お前さんのことが心配なのか練習に身が入ってなくてな。困っておるんじゃ」 悪戯を仕掛けるような、僅かに楽しんでいる表情で言うのに、私はすぐには信じられなかった。 確かによくは憶えていないけれどあんな別れ方をして、レギュラーの皆が変に思っているのは当然だろう。自分が謝るのは当たり前だ。 そして後悔していた。彼らの前で倒れてしまったことを。 余計な心配をかけてしまったんだ。本来なら、表に出してはいけなくて自分の貪欲な向上心なんて隠していなければいけなかった。 皆と一緒にテニスを続けたいのなら――そう思っていた。 でも実際は違っていた。自分は、立海との繋がりが欲しかったんだ。 彼らと関わるには強くいなくてはいけない、だから練習量も増え体調管理が疎かになっていた。 けれど、自分を心配して練習に身が入らないというのは私には判らなかった。 先生が言うなら、よっぽど表に出ているのかもしれないけれど。 それでも自分にはそんな風に心配して貰える資格なんてないんだから。 戸惑いが表に出ていたんだろう、少し驚いた表情の先生は今度は盛大な溜め息を吐いて頭を掻いた。 「…まったく、お前はしっかりしてるのか抜けてるのか判らんよ」 「どういう意味ですか」 「そのままじゃよ」 からかわれてる気がして、少し拗ねたように返せば先生は大人びた、教師らしい表情で言った。 「お前は、自分が思ってるより周りを惹きつけるがそれと同じくらい、もう連中のナカに溶け込んでしまってるのさ」 「…………」 それは純粋に、驚くことだった。 自分の評価なんて第三者でないと判らないものだけど、こんなに予想と反してるのも珍しいと他人事のように思う。 つまり、私が作っていた壁というモノなんて意識する程の効果はなく。 そして知らない内に、私はこの世界の輪のナカに入っていたということだ。 立海の皆がそうだったように―― 拍子抜けしたように呆けてると、いつの間にか傍に寄っていた竜崎先生が私の背中を勢いよく叩く。結構痛い。 「ホラホラ、ぼさっとしてる暇があったら奴らに挨拶してきな!今・朝練中だから」 その勢いに押されて数歩進んだ後、豪快に笑う先生に苦笑してお礼を言った。 やり方は体育会系だけど、お陰で何かすっきりした気分だ。 廊下を歩き出そうとして私は不意に、立ち止まった。それを不審に思った竜崎先生が尋ねる。 「ん?どーした?」 「……あの、越前は。どうしてます?」 自分でもどう質問していいのか判らず、曖昧にそんなことを訊いてみると先生は首を傾げながらも考えるように答えた。 「まぁ、アイツもお前さんを心配しとったようじゃが……妙に気合いが入ってるようじゃわ」 「気合い?」 「練習にな、何というか気迫があったな」 「そう、ですか」 先生の言葉にそれだけ答えて、私はその場を後にした。 そして、先日の――あの雨の中でのことを思い出して、少し恥ずかしくなる。 いくら体力的にも弱っていたからだって、あんな弱気な所を。 しかも後輩の越前に見られ縋ってしまったのがこんなに恥ずかしいなんて。 けれど嫌なモノじゃなかったと、穏やかな心境が物語っていた。 本当は少し躊躇ったけれど、朝の静かで澄んだ空気がそうさせるのか。私は昇降口前で止まっていた足を動かして履いていた上靴を、通学靴に履き替える。 そして真っ直ぐテニスコートがあるグラウンドへ向かう。 もしかしたら、結果として越前は救ってくれたのかもしれない。少なくとも私の胸中が変わっているから。 薄々だけど、私はずっと弟の代わりに生きているという自覚はあった。 彼を護れなかったこと・夢を奪ってしまったことを、私は償わなければいけないと思っていた。 でも越前の言葉で、気づいてしまった。 彼にそのつもりはなかったんだろうけど、理解した。 結局、死んだ者は何も言ってくれないし、想いなんて判らないんだということ。 過去は戻らないモノで、想いを紡いでいくのは結局、生きている人間だ。 ――そう、私は全く前を見ていなかったんだ。 |