沈黙したまま、雨に打たれるままのを越前は黙って見つめるしかなかった。
 幼い頃を、思い出しているのだろうか。
 俯く表情からは苦しみも悲しみも読み取ることが出来ないほど、無表情だった。
 だがその静かな雨が、彼女の心情を表しているようで違和感がなかった。
 まるで罪を背負うような姿に、越前の中で反発心が沸き起こる。
「……その夢って、何だったんスか?」
 そんな質問をされるとは思ってなかったのだろう。は少し顔を上げ、驚きながらも苦笑してまた顔を逸らす。
「子供の夢よ、無知だったからこその夢」
 抑揚のない声音に、越前はそこでやっと彼女の本当の姿が見えたような気がした。それは勝手な錯覚だったのかもしれないが。
「真斗はテニスが大好きで負けず嫌いで、いつか世界の舞台でテニスをするんだって……目を輝かせて言ってて、私もそれを応援してた」
 諦めの色が見える彼女の表情の中には、懐かしむような弟への愛しさも混じっているようだった。
 だがその顔も次第に苦しみに変わっていく。
「なのに、私がマナの夢を……未来を奪ってしまった。ホントは私が、護らなきゃいけなかったのに…っだから、代わりに」
 自分が全てを奪ってしまったんだと言うは、余りにも小さく見えた。
 いつもの明るい彼女の姿はなく、それは何かに縋りつく少女だった。
 そして、判ってしまった。
 はその弟の代わりにテニスをやっているということを。
 勿論、彼女自身テニスが好きなんだということは、3ヵ月足らずの中で越前でも判っていた。だが、テニスをする目的としては弟の為なんだということに驚愕する。
 こんな状況下でなければ、きっと知ることのなかった事実に越前は気づく。
 立海の連中は、本当はそんな脆いを見て護ってきたんだと。
 もしかしたら、不二もこんな彼女を見たことがあるのかもしれない。
 そう思うと越前は無性に悔しくもあったが、腹ただしくもあった。
 だっては何一つ、救われてなどいないから。
 護られているということは、いつでも助けてくれる――逃げ場所があるということで。
 意識していなくても、彼女は立海の連中を頼りにしてきたのだ。彼らを帰る場所として。
 それは心の支えというより、依存に近い。
 今になってやっと、越前は不二の言っていた言葉の意味が判った気がした。
 けれど、じゃあ先輩はどうやって歩いていけるというのだろうか。
 確かに人は独りでは生きていけない。
 だからといって、何かを犠牲にしたり縋って生きていくことが正しいことでもない筈だ。勿論、間違ってもいない訳だが。
 俯いて雨に打たれている彼女の姿が、まるで独りで寂しく泣いているように見えて、越前は衝動的にを腕を引いて抱き締めていた。
「越ぜ…っ」
 いつも抱きつかれる側だったから気づかなかったが、その身体がやけに細いことに、驚くに構わずそんなことを思った。
「――俺には、難しいコトは判んないスけど…」
 先輩を救える言葉なんて、思いつかないけれど。
 だけど、これだけは判る。
「もう、イイっスよ先輩。誰かの為…とかじゃなくて、自分の為に生きても」
「え…?」
 越前は自分でも珍しく考えながら言葉を選んで言った。腕の中のの声は、掠れている。
「我慢して、何かの身代わりなんて先輩らしくないっス。もう、自分の為にテニスしてイイんスよ」
 きっと彼女は顔を見られたくないだろうと思って空を仰いで言う越前も、本当はの顔を見るのが恥ずかしかった。
 代わりに意識は腕に集中していて、が戸惑うように頭を上げてまた俯いたのが判った。
「でもっ…」
「――きっと」
 少し震えた彼女の声に、越前は敢えて強く呟いて目の前の少女を見つめた。
 困惑した表情に純粋な年相応の姿が浮かんでいるのがおかしいような、味わったことのない苦笑をなんとか押さえて彼は微笑った。
「先輩の弟も、それを望んでる」
 自分がそうであるように。
 その言葉に、すぐには理解出来なかったのか。一度固まったは眼を丸く見開いて顔を上げた。
 そして何かを言いかけるが、視線を泳がせてまた俯いてしまった。
 無責任な台詞だったか、と越前が後悔しかけた時。
 力が抜けたのか、体力が保たなくなったのか、が不意に足から崩れて倒れそうになる。慌てて越前はしゃがみながら彼女を支えた。
 考えてみれば倒れるほど体調が悪かったのだ。それをこの雨の中では、身体も冷えてしまっている。
 越前が近くの休憩所へ移動しようか考えていると、腕の中にいたが服の裾を掴んでいた手を強く握り締めてきた。
「いい…の、かな?」
 少し顔を上げて呟く彼女は、戸惑うように続ける。
「ホントは、ずっと苦しかったなんて…マナに、怒られない……かな」
 幼子のように震えて訊いてくるのは、既に体力の限界がきていたのかもしれない。
 或いは、今まで押さえてきたモノが流れ出てしまっていることに困惑しているのか。
「私は、自分の為に生きていいのかな…」
 眠そうな瞳は、意識が飛びかけているのかもしれない。
 その姿がまるで、これまで彼女が我慢をしてきた経過の体現のようで。
 越前は切なくなる胸中を隠して、再びを強く抱き締めた。
 そして、自分が出来るだけの明るい声で告げる。
「じゃなきゃ、先輩を助けたりしないっスよ」
 生きて欲しいから、助けたのだと。
 まだ幼い彼女の弟がそこまで考えていたかは、判らないが。
 その窮地でを庇ったのは、きっと本能でなければ出来ないことだから。
 僅かな沈黙の後、微かに聞こえてきたのは小さな泣き声で。
 弱々しく服を掴んでくるは、押し殺すように泣きながら安堵したように一言呟いた。

 良かった、と――

 それは僅かでも、彼女が抱いていた疑問と苦しみがとけ合った瞬間だったのかもしれない。
 今は、静かに降る雨が二人を優しく包んでいるようだった。





 END...




書下ろし 09/11/08