その場から逃げるように、雨の中を走り去ったを。
 追いかけようとした真田を無言で制止したのは、柳だった。
 止められたことに彼は怪訝な表情で振り向いたが、追いかけるのだろうと思っていた柳は動かなかった。
 代わりに視線を向けていたのは、呆然としていた越前。
 見えなくなっていくの背中を見つめながら、彼は戸惑っていた。
 衝撃を受けてはいたが、あんなを見た後では悔しさではなく困惑の方が大きかった。
 けれど不意に、いつかの手塚の言葉を思い出して強く拳を握り締める。

 『それでも、知る事を恐れるなよ』

 まるで、その言葉に後押しされるかのように。
 越前は既に見えなくなってしまったの後を追いかけた。
 同じように忍足も追いかけようとしたがそれは、場にそぐわない涼しい表情をした不二に止められる。
「……何で止める」
「君が追いかけるのは、筋違いでしょう」
 怪訝に問うと、不二は腹の読めない笑顔で返した。
 いや、実際は彼も表に出していないだけで憤っていたのかもしれない。
「そういう自分はどうなんや」
 そんな推測も含めて忍足が問うが、不二が答えることはなかった。
 代わりに前へ出てきた真田が、掴みかかりそうな勢いで彼を睨んできた。
「何故あのような事をに言った?」
 その敵意に似た怒りに、不二へ向けていた疑問は削がれ、面倒そうに忍足は息を吐く。
「事実を言ったまでや。それと、アイツの為に」
「傷付くと判っていてもか?」
「それは自覚があったっちゅうコトや。それに、アンタらも人のコト言えんやろ」
 尚も問う真田に、忍足は悪びれもなく言いながら真田達へ振り向く。それに反応を見せたのは真田だけだったが。
 何があったかは判らないが、が情緒不安になっていたのは彼らの一因が先だ。
 けれど、と続けたのは不二で少し不機嫌さを滲ませていた。
「決定打は君でしょ。忍足君」
「お前らは知らんのや――…アイツにとって、真斗がどれほど重要でどれほど大切だったか」
 自分一人責められているような状況に、忍足は無意識だが僅かに苛立ちを滲ませながら吐き捨てた。
 あの頃、他人から見てもが弟をとても大事にしていることはよく判った。
 それは弟が好きだからというより、姉としての使命感のように見えた。
 その弟が事故とはいえ、亡くなったのだ。の絶望は計り知れないものだっただろう。
 だから再会した彼女が明るくなっていたことに、驚きながらも安心した。乗り越えたんだと思った。
 でもそれは違ったんだと、今日の試合を見て確信した。
 の中で、弟の死は強く根付いていて、越前と真斗を重ねてきっと償おうとしている。
 けれどそれは間違っている。だから、気づかせる為に忍足は敢えて言ったんだと。
 彼の話に、真田は沈黙したまま聞いていた。
 困惑の色が見えなかったから恐らく、ある程度のことはから聞いているのかもしれない。不二も何か言いたそうだったが、冷静だった。
 ただ、柳だけは表面は変わっていなかったが、放った声音は冷たかった。
「確かに、間違っているかもしれない…だがそれはの為じゃない――お前が、安心したいだけだろう」
 その言葉に、忍足は思わず動きを止めた。
 驚いたような、核心を衝かれたような衝撃に、彼は反応することが出来なかった。
 そして脳裏を過ぎるのは、幼い日の冬の朝。
 あの火事のあった日、知らせを聞いて駆けつけた忍足は、その光景に足を竦めてしまった。
 全てが灰になり、家屋の跡形もない残骸の上で。
 は動かなくなった弟を抱き締めたまま、空を見上げていたのだ。
 誰に声をかけられても聞こえてすらいないのか、全く反応することなくただジっと。
 そう、まるで世界から切り離されたような――
 忍足はその感覚に恐怖を感じて、思わず逃げ出してしまった。
 何かしてあげられるかではなく、何も出来ないのだと悟ってしまったから。
 彼女にとって家族が――いや、真斗がどれほど大事だったのかを。そして自分がどれほど子供で無力だったことを。
 その後、と会うこともなく風の噂で何処か知り合いに引き取られて引っ越したと聞いた。
 だから忍足の中で、逃げ出してしまったことがずっと心の隅で引っかかっていた。
 昔のことで彼女も知らないことだからと思っていたが、それでも深く根付いていたのだ。
 忍足の沈黙に、怪訝な表情をする真田達に気づいて彼は思わず苦笑した。
「……そうやって、アンタはのことを想ってきたんやな」
 特に意味のない呟きに柳は答えなかったが、忍足は気にしなかった。気分的には諦めに近い。
 気づいたのだ。判っていなかったのは自分だったのだと。
 そんな忍足の様子に気づいたのか、それとも気紛れなのか柳が歩き出す。
「何処へ行く?蓮二」
「……追わないとは言ってない」
 真田の呼びかけに、彼は歩いたまま答えた。
 それについていくのは不二で、真田はそれを見て慌てて続く。忍足は、動かなかった。
 元々彼にを追いかける権利はなかったし、今の忍足に追う意志はなかった。
 それを彼らも判っていたのだろう。不二と真田は振り返ることなく歩いていく。
 ただ、先頭を歩いていた柳が不意に立ち止まって呟いた。
「……俺も、お前と同じだ。忍足」
 不思議と強みのある声音に、忍足が顔を上げると柳は少し微笑っているようだった。
「自分の事しか考えていない」
 振り向いて言った言葉に、忍足が驚いている間に柳はその場を去っていった。
 残された忍足は、苦笑いで呟いた。
「……性悪」
 微かの悔しさを滲ませて。




















 雨足が少し強くなり始めた、視界の悪い会場で。
 は水分で重くなるユニフォームも気にせず、走り続けていた。
 本人の意志に反してその速度は鈍くなり、手足の感覚もなくなり始めている。
 同じように鈍くなった思考の中で、彼女は思い出していた。
 忍足の言う通り、越前と真斗を重ねていたことが確かにあった。
 最初に越前が弟に似ていると気づいたのは、転校してきて暫くしたあの図書館。
 本当は手塚達などではなく、見ていたのは真斗の夢。
 魘されていたのは、あの火事でのことを夢見ていたから。だから起こされた時、越前を弟と間違えそうになった。
 次に似ていると感じたのは、あの放課後。
 越前と遅くまで残ってテニスコートで練習していたあの日。
 頑固で負けず嫌いで、強さを求めるその姿が、真斗にそっくりだと思ってしまった。
 そして先日の忍足の訪問で判ってしまった。
 少なからず、自分は越前を弟と重ねていたことを。
 今日の試合だって、万全と言えるようなペア組ではなかったから後半でボロが出てしまった。
 はそれなりにミクスド経験も長いから対応出来ていたが、越前はそうは行かなかった。
 それが対戦相手にも伝わり、越前を庇うようなプレイをしていたと今なら自覚出来る。
 だがそれは本来の自分のテニスではない。単なる自己満足だ。
「――…っは、ぅ」
 雨の中を、しかも体調不良で走り続けていた所為で限界が来たのか、視界が掠れた。
 腹腔からくる吐き気にふらついて、は傍にあった休憩所の柱に寄りかかり呼吸を整える。
 久し振りの感覚だった。
 青学に来る前は何度かあったが、その度に助けられていた気がする。立海にいた頃は、柳達に。
「ッ…――」
 そして今も彼らに助けを求めようと思う自分に、は情けなくなった。
 あの頃から、何一つ変われていないことに。