次の授業までの中休み。
 移動教室から自分の教室へ戻る途中だった手塚が、ざわつく廊下の先で。
 3‐6の教室前で向き合って話す、不二との姿を見かけた。
 無意識に立ち止まって見るとの右の掌には巻かれた包帯。
「……………」
 微かに、手塚は眉間に皺を寄せた。
 黙って二人を眺めていれば、不二が心配するようにの右腕に手を差し伸べる。
 だが彼女は微笑を浮かべながらその手からすり抜け、不二の許を離れて行った。





 去って行くを見届け、その後ろ姿を見送る不二の隣りまで手塚は歩み寄った。
 そして、目は合わさず小さくなっていく少女の背中を見つめながら訊いた。
「何かしたのか?」
「……ヒドイなぁ。僕の所為じゃないよ」
 けれど不二は心外だとばかりに笑う。恐らく、彼女の手に対して言ったのだろう。
「そうじゃない。と、何が遭った?何を言ったんだ」
 視線は変わらず前方へ向けたまま、強く問う。
 不二は振り向いて静かに訊いてきた。
「どうしてそう思うの?」
 向き合っていなくても、手塚には不二が硬質な空気を纏ったのを感じ取れた。
 彼だけの様子がおかしいなら、わざわざ訊いたりはしない。だが手塚は、の表情の違和感に気付いてしまった。
「何かなければ、アイツがお前に対してあんな気遣った笑顔を見せたりはしない」
 不二へ顔を向けながら、確信をもって言う。
 今のにとって、唯一彼女が心置きなく自分を曝け出せるのは多分、不二だと手塚は思っていた。
 似た者同士ということもあるが、共にいる時間が多い者だから。
 暫らく視線を合わせたままでいると、珍しく不二の方から顔を逸らす。
「…ま。言ったといえば、確かにそうかな」
 それは微かに吹っ切れたような呟き。
 既に姿が見えなくなっているを追うように、不二は廊下の先を見つめる。
「でも安心して。を傷付けるようなことは言ってないから。これは、僕の心の問題」
 いつもの笑顔を浮かべ振り向いてくる不二に、手塚は無言の代わりに驚いていた。だがそれは言葉の意味に驚いていた訳ではない。
 手塚は驚きを表に出さないまま、少し溜め息を吐く。
 例え彼の心の問題でもやはりが関わっていることは判っていたが、敢えて別のことに触れる。
「なら、あの右手は?」
「あれは……自身が望んでしたことだよ」
 不二は再び顔色を変えた。それは僅かな苛立ちをもっていたことを、本人は気付いてなかっただろう。
「昨日の放課後、越前と残って練習していたんだ。その前からも過酷な練習を続けていたんだろうね。彼女の手、紅く擦り切れていた」
「そうか…」
「強くなりたいんだねは。どんなことをしてでも、誰にも負けない程に」
 まるでの意志を代弁するかのように不二が告げる。それが、判らない訳ではなかった。
 寧ろ、彼女ならそれぐらいやりかねないと思った程だ。
 手塚は無意識に、自分の拳を強く握り締めた。そんな状況になっていたに気付けなかったことが情けない。
 その時、横にいた不二が僅かに表情を落とす。
「――でも、その為に身体を犠牲にするのはおかしいよね…」
 零れるような声に振り向けば、そこには笑みを消した、端正な横顔があった。
「どうしては、自分だけで背負い込もうとするんだろう。何で、僕らを頼ってくれないのかな………何で」
 淀みなく紡がれる疑問は手塚も感じていることだった。けれどなぜか不二の声で発せられたその言葉に、共感することは出来なかった。
 妙に、感情の欠けた声音。
 そう思って聞いていた言葉は一度途切れ、改めて紡がれる。
「何で、僕らじゃ駄目なんだろう」
 手塚はそれを耳にして、目を見開いた。
 恐らくそれは、が前にいた立海に対しての言葉だった。
 だが手塚にはその言葉が意味することとはまったく異なった思いを、不二が曝け出しているのを感じて絶句する。
 そして不意に、いつかの部活で不二が言っていた言葉が蘇ってきた。










「――手塚。僕には、がとても遠くに感じるんだ…」

 そう言って、彼は手塚に向けていた視線を逸らしながら晴れ渡った空を仰ぐ。
「ちゃんと掴まえておかないと、ふわふわとどこかへ飛んで行ってしまいそうで……不安になる」
 それはまるで蝶のように、雲のように。
 掴みどころのない不確かなモノをいとおしむような眼差しで、不二は僅かに拳を握る。
 しかし手塚は、それがただの印象としてだけとは思わなかった。彼はそれを受け留め、藻掻こうとしている。
「それは自分を見ていて欲しいのか?それとも、自分のモノにしたいのか?」
 鋭い瞳と拒否することを許さない声音で問えば、不二は驚くように振り向いた。
 だがすぐにいつもの笑みに鋭利さを含んで、愉しむような口調で言った。
「……僕にとって、それは同意義語だよ。手塚」
 まるで総てを蹂躙するかのように。それこそ、超然とした微笑みで。










 手塚は思い出した。
 理解した。不二が望んでいるのは、そんなモノではない。
「違うだろう、不二」
 不二から目を離さないまま、手塚が呟くように否定する。彼は視線だけを手塚へ向けた。
 が青学の皆を信じていないとか、頼ってくれないとか。そんなことはどうでもいい筈だ。
 重要なことは、自分を見てくれていないこと。
 許せないのは、未だ彼女の心に立海の連中が根付いていること。
 傍にいるのに、儚くて遠い存在――…
「お前は確かな形で、傍に置いておきたいんだろう。アイツを傷付けるのは、自分だけでいたいのだろう」
 力強い声でありながらも、手塚の表情は冷めた色をしていた。
 異常なまでに狂おしい感情。不二のソレは醜い、とさえ思える程に。
 不二はただ愉しそうに、鮮やかに嗤う。
「ま・否定はしないよ」
 言いながら目を伏せて不二は手塚に背を向ける。
 そのまま教室へ戻ろうとする彼を、手塚は静かに呼び止めた。
「………不二」
 振り返りはしなかったが、その背中が次の言葉を待つ。
「本当にそれを望んでいるとしても、もしを傷付けたり泣かせるような事があれば…――俺はお前を許さないと思う」
 珍しく感情の籠もった手塚の声に、不二が振り返って目を丸くする。
 騒然とした校舎の廊下で、二人のいる所だけが外界から取り残されたように。
 張り詰めた空気が流れ、僅かな沈黙が波紋を呼ぶ。
 だが不二はすぐに笑いを漏らして感嘆した。
「へぇ…珍しいね。君がそこまで言うなんて。それだけの存在、ってコトかな」
 腰に手を添えながら、不二は再びが消えた方角を見やる。
「でもそれは仲間として?それとも…」
 彼は僅かに恍惚さを宿した目を眇めて言いながら、手塚の方へ振り向いて訊く。
 穏やかな笑顔のまま。
「一人のオンナノコとして?」
 その言葉の意味が、手塚には一瞬判らなかった。
 同じテニスをする仲間として、を心配しているのは確かだった。だがそれ以前には女子だ。
 幾ら強い選手だからといっても、怪我をするような無茶はして欲しくない。
 それに元から手塚は、総てに於いて彼女が強い人間だとは思っていなかった。
 だから不二が今の感情のままをに向けてしまえば、少なからず彼女を哀しませることになる。それは許せない。
 そう。手塚にとって、は女の子で仲間だ――――今は、まだ。
「……それは、別でなければいけないのか?」
 少し躊躇いを見せながら問う手塚に、不二は笑顔を弱めて視線を落とす。
「ふーん…同じだって言うなら、僕はそれでも構わないけど」
 不二は意外とばかりに独り言のように呟いて、手塚を見ないまま踵を返す。
 そして立ち止まる彼を不審に思い、声を掛けようとした手塚を遮るかのように不二は顔だけで振り返る。
「 ――今の君に、僕を邪魔する資格は無いよ。」
 紡がれた声も向けられた瞳も、射抜くように冷徹だった。
 それに手塚は答えることを忘れ、教室へ戻って行く不二の背中を眺めるしか出来なかった。
 取り残された彼は、再び小さな溜め息を吐いてから。
 僅かな蟠りを抱いたまま、教室へ戻っていった。





 †END†





初出 05/10/11
編集 08/11/04