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 空を見上げていたは、唐突に腕を引っ張られ思考を現実へと戻される。
「―― 誰のことを考えてるの?」
 驚いて振り向くと、不二が訝しげに自分を見つめていた。
「………誰も」
 そんな彼に気を悪くした素振りもなく、は答えて視線を地に落とした。

 あの秋の日――
 は柳の腕の中で、頭が痛くなる程に泣き続けた。
 転校を繰り返すようになってから、は辛いことがあっても淋しくても泣かなかった。いや、泣かなくなった。
 それは親に心配をかけたくないからと、自分に負けたくなかったから。
 涙を流してしまえば、総てに負ける気がした。テニスにも境遇にも。自分は不幸なんだと認めるようで怖かった。
 でも柳は、泣いてもいいと言ってくれた。
 初めてだった。あんな風に自分を受け留めてくれた人は。だから、涙が溢れた。
 きっと、両親も同じくらいに想ってくれているのだろう。けれどに気遣って何も言わず見守ってくれている。自分にテニスを続けさせてくれている。
 そして自分には、柳達のような素晴らしい仲間がいる。
 そのことに気付き、これ以上ない倖せを感じた彼女にとって、立海が世界の中心になり始めていった。
 また余計に、強くなりたいという気持ちが高まっていった――

 黙って俯いていると、不二に掴まれたままの腕が持ち上げられているのに気付き、顔を上げる。
 何も言わずに黙ってそれを眺めていると、彼はそれを自分の顔に近付けて、紅く擦り切れた掌に軽く口付けをした。
「っ……」
 僅かに痛む傷に顔を顰める。
 それを視線だけで確かめ、不二は顔から手を離した。
「どうして、こんなになるまで練習を?」
 その表情はとても真剣だった。そこに、いつもの穏やかな笑みはない。
 もう何度、訊かれた質問だろうか。そう訊かれる度、はただ笑って誤魔化すだけだった。彼女にとって、その質問自体が理解出来ないものだった。
「どうして…?」
 は嘲笑うように訊き返す。
「君にだって判るでしょ。私は強くなりたい……それには練習するしかない。どんなに、身を犠牲にしてでも」
 躊躇いもなく、それは当然のように語られた。不二を見据える眼差しはとても冷たい。
「まァ君の場合、試合の最中でよりスリルを愉しめるかどうかが、重要みたいだけど」
 まるで試すような口振りの彼女に、不二は怯むことなく笑みを深める。
「なんだ、気付いていたんだね」
「私と君は…似ているようでいて違うわ」
 確かに、以前不二が言ったように根本的な人間性では二人は近いのかもしれない。
 だががテニスに求めているモノ・目指しているモノはスリルなどではなく、もっと身近なモノだ。仲間とテニスをやることで、成し遂げられるモノ。
「私が求めるモノは、君とは違う」
 力なく垂れた腕は掴まれたまま、は俯いて呟く。不二が顔を歪めたことも、気付かない。
 には、それが唯一の希望だった。それに縋っていることにも気付かずに。





 俯いているが、手を掴んでいるのに拒絶されているようで、不二は不安になった。
 だからわざと、無理に言葉を成す。
「向こうにいた時……それは在ったの…?」
 呟くように言った思いも寄らない質問に、は驚いて顔を上げた。
 それは愚問といえば、愚問だったのだろう。
「勿論…皆が居てくれたから、私はそれを見付けたの。知ることが出来たの」
 先程まで纏っていた重い空気を溶かすように、は零れるように微笑んだ。それが却って不二を苦しめる。
 蘇るのは、あの放課後に感じた焦燥。
 なぜ今、彼女を笑わせているのが自分ではないのだろう。今の彼女に、自分は映っていない。
 そればかりが不二を追い詰め、咄嗟にの腕を自分に引き寄せた。
「僕を見てよ、
 身を崩したは、そのまま不二の腕の中に収まる。
 耳元に寄せられた囁きに顔を上げようとしたが、肩口に頭を埋められ、不二の顔を見ることは出来なかった。
「―――…」
 何かを、呟いたようだったがには聞こえなかった。
 怪訝な顔をする彼女を見て、不二は悪戯をするような笑みを見せながら身体を離す。そして制服のポケットからハンカチを取り出して、そっと彼女の手の傷口に添えた。
「手当てするから部室へ行こうか。もう、陽も大分落ちてるしね」
 は不思議に思いながら黙って従う。彼の言うように空は一面の橙色で、太陽は既に半分程、姿を隠している。
 それをぼうっと仰いでいるの腕から顔を上げて、不二が言った。
「君の気持ちも判るけど…」
 声につられて視線を正面に向けると、真剣な表情とぶつかる。
「こんな無茶なことはもうしないで欲しい。君の身体に何かあったら、心配するのは僕だけじゃないんだからね」
 その言葉には一度苦笑して、微笑った。
 いつもの、幼さが残る穏やかな笑み。
「ありがとう、不二…」
 それを聞き届けた不二は、先に男子部の部室へと向かって行った。
 去って行く背中を見つめながら、は内心で呟いた。





 ――――ゴメンね。

 その時のは、酷く無表情だった。
 佇む足元に伸びる、黒く長い影を静かに見下ろす。

 きっと、その望みを私は叶えてあげられない。

 は不二が向けてくれた願いを否定した。誰が何度止めようと、彼女は同じことを繰り返すだろう。

 だってもう、ここには…――

 茜色に染まる空を再び振り仰ぐ。あの日と同じ、夕焼け空。
 それから顔を逸らして、傍に落ちた自分のラケットを拾い上げる。
 自分は醜い貪欲な人間だから、きっとこの努力を止めない。
 幾ら天才だと称されようと、努力なくして栄光を手に入れることは出来ない。
 も例に漏れず、幼い頃からずっと厳しい練習を積んできた。それは今も変わらない。
 決意を示すように、グリップを握る手に力を込める。





 喩え、この身体が朽ちて果てようと――





 †END†





初出 05/10/11
編集 07/12/03