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 それは彼らがまだ、一年だった頃。
 大会も無事に終わった秋の放課後のこと。
 柳達が夕方遅くまで居残って練習を続け、部室へ戻ろうとしていた時。
 女子コートの方から何かが倒れる音がした。
 気になって三人が向かうと、そこには地に倒れ伏したの姿。
っ!?」
 幸村の叫びと同時に、真田と柳が彼女の許へ駆け寄った。
 うつ伏せたままのを真田が抱き起こすと、意識はあったが異常なまでに汗を掻いていて、空気を求めるように荒い呼吸を続けていた。
「一体どうしたんだっ?」
 背に腕を回して彼女を支えながら尋ねるが、答えはない。いや、答えることが出来なかったのかもしれない。はただ呼吸を整えようと必死だった。
 その様子に、幸村は息を呑んで眺めるしかなかった。そして柳はの右の掌を見て目を見開く。
 真っ赤になったその掌からは、血が滲んでいた。よく見ると周りの地面には、そこから滴り落ちた血痕がポツポツと散っている。
 近くにはグリップに血が付いたラケットと、散乱した無数のテニスボール。
「まさか、こんなになるまで練習を……」
 幾らなんでもやり過ぎだと、幸村が呟く。
 しかし柳は、彼女ならやりかねないと思った。
 最近、が練習を必要以上にし過ぎているのは知っていたし、注意もした。それで止めるとは思っていなかったが、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
 それには先の大会で一試合だけ敗けている。それが余程悔しかったのだろう。だからこうして練習を続け、それが堪りに堪って限界を超えてしまったのだろう。
 三人が呆然としていると、真田の腕の中にいたが動いて自力で起き上がろうとしていた。
「退いて…真田」
「駄目だ。まだ動くな」
「いいから、構わないで……」
 制止しようとする真田の言うことを聞かず、は彼を押し退けて地に両手を付く。そのまま身体を引き摺るように、ラケットが落ちている方へ進もうとしていた。
「まさか、まだ練習を続けようっていうんじゃ…」
「馬鹿な!止めろっ」
 幸村の言葉に、真田は慌ててを止めて身体を引こうとする。
 だがはそれに抵抗した。地に付いた手に力を込めて、訴える。
「あと少しなの…まだ終われない。邪魔しないで……!!」
 悲痛を伴うその声に、柳は静かに見下ろしていた。こんなを見るのは初めてだった。
 しかしそれを許す訳にいかないと、真田が俯く彼女の腕を掴んだ時、ポツリと彼の手の項に雫が落ちる。
「!…お前、泣いているのか……?」
 それは、の涙だった。
 震える肩は弱々しく、その少女が彼らにはとても小さく見えた。
「放してよ……はなしてっ!」
 は逃げ出そうと、尚も真田を振り払うように身を捩って叫ぶ。
 それでも体格差もあるが、決して放そうとしない彼にどうすることも出来ず、は力のままに叫ぶ。
「――ぁあああああ……ッ!!」
 そのまま、は意識を失った。




















 清閑な院内の公衆電話の前で、柳は幸村へ電話をかけていた。
 が倒れた後。彼らは救急車を呼び、彼女を病院へと連れて行った。
 それ程までにの身体は弱っていた。学校には幸村と真田を残し、柳が付き添いで病院へ来ていた。
「あぁ。過度な練習に、疲れも溜まっていたらしい。それで体調を崩したようだ……いや、安静にしていれば二・三日で退院出来るそうだ。ラケットは、まだ握れないが」
 一通りの容態を報告して、柳は電話を切った。溜め息を一つ吐く。
 のいる病室へ戻る中、柳はコートで見た彼女を思い出していた。
 ――初めて見た、テニスへの執着心。
 あれがの内に潜んでいた影、なのかもしれない。
 柳は目を閉じてもう一度ゆっくり息を吐く。そして目的の病室へ近付いて前方に目と向けると、の病室前に一人の女性が立っていた。
 柳に気付いたその女性は軽く会釈をする。それにつられて頭を下げると、彼女は穏やかな笑顔で微笑んだ。

さんの学校のお友達かしら?」





 の母親は話がしたいと、場所を院内のロビーへと変えた。
 長椅子に座り、目の前を患者や看護婦が通り過ぎて行くのを見送りながら、柳の横に座る母親は言った。
さんが部活に入るって聞いた時は、本当に驚いたわ。君も知ってると思うけど、ウチは父親の仕事の関係で転勤が多いの」
 幼さのようなモノが残るその女性は、年上ということを余り感じさせない人だった。その穏やかな口調もそうだが、柔らかく微笑む彼女にの面影は余り感じない。
「だからあの子は友達を作らなくなってしまった。どうせ離れてしまうなら、友達なんていない方が良いって思ってるんでしょうね」
「だと、思います」
 淋しそうな表情で微笑みながら母親は遠くを見つめていた。それは柳も気付いていたことだから、躊躇いなく頷く。
 それが嬉しかったのか、彼女は笑みを深めて柳へ振り向く。
「だから良かったと思ってるの。さんが君達と知り合ったことを。……きっと、心からそう思える日があの子にも来るわ」
 まるで確信するように、それとも希望を抱くかのように。
 微笑む彼女に、柳は一度黙り込んで顔を上げた。
「そんな大それた事など出来ませんよ…――現に、を止める事は出来なかった」
「………君が気に病むことはないわ。あの子がテニスのやり過ぎで倒れることは、一度や二度じゃないの」
「…?」
 先程より覇気のない声でそう告げた。信じられなかった。今日みたいなことが何度もあったのかと、俄かには信じ難かった。
さんにとって、テニスは今も昔も生き甲斐なのよ。そう思う反面、私達の期待に応えようとするから、辛くても無理をして押し込めようとするから限界を超えてしまうのね」
 そう言って母親は、悲しそうに伏し目がちな瞼を震わせた。
 きっとこの人は何もかもを知っているのかもしれない。そこまで判っていても、彼女はの好きにさせているのだろう。
 それが正しいことなのかは、柳にも判らない。間違っているような気もする。
 だがこれはきっとの家族の問題で、自分が口出すことではないのだろうと柳は思った。
 暫らく沈黙が続くと、真剣な面持ちでの母親が柳へと振り向いた。
「柳君。こんなことを言っておいて、お願いするのは卑怯だと思うけど……どうか、あの子が無茶しないように見守っていて欲しいの…」
 突然の申し出に、柳は驚いて彼女を凝視した。
「…どうして、俺なんですか?」
 柳には判らなかった。今日会ったばかりの自分に、なぜ頼んだりするのか不思議だった。
 そんな彼に、母親は可笑しそうに微笑んで悪戯をバラすように言った。
「あの子が友人だと私に話してくれたのは、君が初めてだったから」
 言い終わらない内に彼女は立ち上がり、それじゃ私はとその場から病院の玄関へ向かおうとしていた。慌てて柳は呼び止める。
には会って行かないんですか?」
「えぇ。このまま帰ります」
 当然、会って行くのだろうと思っていた柳が尋ねると、彼女は当然のように答えた。

 なぜかと訊いた柳に、母親は優しく、けれど淋しそうに微笑った。





 の母親と別れ、柳は彼女の病室へと向かった。
 その病室前で彼は一度立ち止まる。だがすぐに、柳の手は躊躇いなく目前の扉を開いた。
 広がる視界の中で目にしたのは、ベッドに寝ている筈のが上体を起こして腕の点滴を引き抜こうとしている姿。
 気付いた時には、身体が動いていた。
「何をしている」
「――!…柳……」
 咄嗟に駆け寄った柳は、点滴を掴む彼女の右腕を掴んで制止した。驚いたは、身体を強張らせて顔を上げる。
 それは余りに儚げだったが、最も人間らしい表情だと柳は思った。
 治療を施したからということもあるが、コートで倒れた時に比べて、その顔には生気が戻っている。
 だがすぐには俯き、笑いを漏らすように嘲笑うように吐き捨てる。
「こんなモノ必要ないわ。病院なんて、大袈裟すぎるのよ」
 自分の容態を判っていない筈はないのに、は迷惑とでもいった風だった。
「なら倒れたりするな。己の体調管理も出来ない者が、何でも一人で出来ると思っているのか?」
 彼女の腕を掴んだまま、柳は普段以上に冷たい声音で突き放すように言った。
 それは怒っているようにも聞こえ、は俯いて何も言わない。ただ、掴まれている柳の腕を見つめていた。
「………放してよ」
 呟くように紡がれた言葉は、拒絶ではなく諦めに近かった。
 柳はゆっくりとの腕を放す。すり抜けていく掌には、真新しい包帯が巻かれていた。
 そのまま黙り込むから視線を離さず、柳はベッドの横にあったパイプ椅子に座る。なぜ、あんな無茶をするのか訊こうとしてすぐ止めた。
 訊いてもは答えないだろうから。また笑って誤魔化すに違いない。
 それが判っているから振り払ってでも追求することは出来るが、柳は彼女が無理に笑うところを見たくはなかった。
 そう思って、不意に柳は先程別れたの母親の言葉を思い出す。
 去り際にその女性は、微笑んで言った。

 『会えば、却ってさんに気を遣わせてしまうわ。あの子に、無理はさせたくないの』

 それは柳と同じ気持ちだった。を想って、一線を置いてしまう。
 だがそれでは駄目だと、柳は無性に思った。
 それでは余計に彼女を追い詰め、何の解決にもならない。どこかでそれを打ち破らない限り――
 焦点を合わせることなく黙り込むに視線を戻し、柳は静かに見つめる。それに気付いた彼女が顔を上げると、その余りに真摯な表情に微かな動揺を見せた。
 それを見届け、柳は口を開く。
「お前が倒れて…俺も幸村達も、本当に心配した」
 窓の外の空は太陽も沈みかけ、夕刻が過ぎ去ろうとしていた。
 柳は、背後から射す橙色の夕陽に照らされたから目を離さない。
を止める事が出来なかった事を後悔した。病院に運ばれた後も、落ち着かなかった」
「柳……?」
 が名を呼ぶ。とても、不安そうに。
 言葉を紡ぐ柳の声は、妙に感情が欠けていた。だからこそ、彼の本当の気持ちだったのかもしれない。
 普段、彼が自分の心を包み隠さず吐き出すことはない。
 だからただ、実感に欠けるのかもしれない。
 けれど柳の顔を見れば、それが本気なんだと思わずにはいられない。
「さっき来ていたお前の母親も、心底お前を心配していた」
 そう告げれば、は更に顔を歪めて驚いた。
 予想はしていただろうが、知ってしまえば後悔せずにいられないのだろう。何か言おうとして止めるように俯く。
 強くシーツを握り締めるの手を、柳が掴む。
「俺はお前が知りたいと思う。何故、苦しんでいるのか。俺に何が出来るのか」
 驚いて顔を上げる彼女を真っ直ぐ見つめる。
「何故、お前は自分を苦しめてまでテニスをしようとする。何故、自分の殻に閉じ篭ろうとする」
 何でもいい。
 の心を見落とさないように。自分から、瞳を逸らさせないように。
「――。お前は一体、何を望んでいる?」
 強く、名を呼んで。はっきりと問う。
 決して強制的なものではなかった。だがその力強い視線に、見たこともない柳の真剣さに、は微かに身体を震わせて固まった。
 そしてすぐに俯いた彼女の瞼からは、小さな雫が零れてシーツに染み渡る。
「…………もっと、強くなりたい…っ」
 聞き取れない程の声で、呟くの肩が小さく震え出す。
 それを、逸らさず柳は見ていた。
「テニスで…もう誰にも負けないくらい、自分の無力さに負けないくらい…私は強くなりたいの……強くならなきゃいけないっ!」
 溢れ出す感情を抑えるように、は言葉を吐き出す。
 それは彼女にとって、最も大事で切なる願いだったのだろう。
 何がそこまでを掻き立てるのか、柳には判らない。それでも、その想いは彼にも理解出来る気がして、胸を締め付ける。
 ――選手として、それは誰もがもつ欲望だ。
「その為だったら私は……!」
 まるで何かに縋り付くかのように言って、は顔を上げた。
 声は強いのにその表情は苦しげで、柳は掴んでいた腕を、震える身体を引いて抱き寄せた。
「やな…」
「――判った」
 突然のことで驚くを腕の中で抱き締め、柳は静かに告げた。
「強くなろう。だが、テニスは一人ではなく互いに高め合っていくものだ。その相手なら、俺が幾らでもする」
 この少女は一体、何度自分を押し込めてきたのだろう。どんな想いで、孤独な時間と戦ってきたのだろう。
 こんな小さい身体で、どれ程の我慢を続けてきたのだろう。
「もう、無理に笑うな。泣くのを、我慢するな」
 柳は腕の中で泣く少女の辛さも哀しみも淋しさも、総てを受け止めるように言った。
 その流れる髪に指を絡めるように、細い身体を包み込むように、強く抱き締めた。
「………れん…じ」
 彼の肩口に顔を埋めるが、掠れるような声で柳を呼ぶ。耳元で聞いた彼は目を少し見開いた。
 彼女が初めて、柳の名前を呼んだのだ。
「蓮二…蓮二……っ」
 糸が切れたように涙を流し、は柳の制服の裾を掴んで名を呼んだ。そんな彼女を安心させるように優しく抱き締める。
 二人はそのまま、落ち着くまで傍にいた。
 そして、柳は心の中で決意する。
 もうが一人で、孤独も苦しみも抱え込まないように。


 ―― は、俺が…――