>Painful










 太陽が傾き始めた、部活終わりの放課後。
 不二は、忘れ物を取りに行く為に部室へ向かっていた。
 誰もいないと思っていた部室前に、誰かを待つように立っていたのは大石。
「どうしたの?大石」
「不二か」
 話しかけると、大石は壁に預けていた背を離して顔をコートの方へと向けた。
 つられて不二が振り返ると、フェンスで囲まれたコート内には、まだ練習を続けると越前の姿があった。





 鍵のことなら任せてと伝え、不二は大石を先に帰した。
 そしてコートへ向かうと、と越前が練習とは思えない程真剣に打ち合っていた。互いが練習とはいえ、手抜きなどしたくないのだろう。
 汗を流す越前に比べ、は少し呼吸を乱している程度だった。
 浮かぶ表情はどこか愉しそうな笑みで、不二はこのまま二人の練習を見ていたかったがそうもいかない。
「――っ」
 声を上げて二人の許へ歩み寄る。気付いたが体勢を崩し、不二に向き直った。
「あれ…どうしたの?不二」
「大石が困ってたよ。そろそろ切り上げない?」
 部室の戸締りはいつも副部長の大石がすることになっている。練習時間はもう終わっているのだから止めさせればいいのだが、彼の優しい性格の所為で気が済むまでやらせてやろうという思いがあったのだろう。
 そんな大石に呆れながらも彼らしいと苦笑しながら、不二は言った。
 聞いた彼女は目を丸くして、空を仰ぐ。練習に夢中で、陽が暮れかけているのに気付かなかったのだろう。
「あちゃー、もうそんな時間か…」
 頭を掻きながらは残念そうにネットへ寄り、越前に声をかける。
「悪かったね越前。付き合せちゃって……もう終わろっか」
 けれど越前は動こうとしなかった。
 汗を拭いながら乱れる呼吸を整える彼に、不二達が首を傾げていると、越前は不服そうにを睨んで言った。
「自分が勝ったまま、逃げるんスか…?」
 不貞腐れたような越前に、は少し驚いて仕方ないなあ、とでも言うように苦笑する。
 練習とはいえ、彼はこれまでの勝敗をカウントしていたのだろう。それはも同じのようで、そのテニスに対する向上心や負けず嫌いな越前に、は一層笑みを深める。
 けれどそれは愉しそうというより、どこか淋しそうな色が強かったが。
 その表情は誰にも気付かれることなく、は微かに俯いてから、気を取り直して越前に顔を向けた。
「そんなんじゃないよ。どの道、これ以上は遅くなるからまた今度ね。後片付けは私がやっておくから」
 諭すように笑う彼女に、越前は渋々ラケットを引いてコートから離れた。
 部室へと向かう途中、越前は不二の横を通り過ぎようとして不意に立ち止まる。不思議に思って不二が振り返ると、彼はラケットを握り締めたまま微かに俯いていた。
「どうかしたの?越前」
「 ……いえ、別に。」
 不二が声をかけるも、何か言いたそうな表情で越前は否定した。それが気にかかったが、彼はすぐに歩き出してコートを後にした。
 その後ろ姿を見送っていると、後方のが背伸びをする気配がして振り返る。
 コートから出る彼女の許へ向かい、用意していたタオルを差し出した。
「お疲れ。僕に手伝えることある?」
 尋ねた不二に、はタオルを受け取りながら笑顔を向けた。
「ありがと。でも私一人で大丈夫だから」
 言って彼女は不二から離れるように、横を通り過ぎる。
 その時、目に入ったラケットを握るの手を見て、不二は咄嗟にその腕を掴んだ。
「――っぅ…!」
 突然の衝撃に、ラケットを放したは痛みに顔を歪ませた。
 それは腕を掴まれたことではなく、掌に走った痛みからだ。不二が無理やり引き寄せた掌は、擦り切れたように紅い血で滲んでいた。
「酷い……どうしてこんな…」
 恐らく、過度な練習のし過ぎで出来たモノだろう。これでよくラケットを握っていられたものだ。
 悲痛に顔を顰める不二に対し、当のは無表情のまま。そして掴んでいた不二の手を、彼女は無造作に振り払う。
「この程度、ヒドイなんて言わないよ」
 何の感情も含まない声音で、は吐き捨てた。
 まるで何事もなかったかのように冷静な表情の彼女が、不二には信じられなかった。何かを押し殺したようなを、彼は静かに見つめ返す。
 不意に、去り際に見せた何かを躊躇うような越前のことを思い出す。
 彼は気付いていたのかもしれない。の様子がおかしいことに。
 けれど彼女がそれを悟られないように振る舞っていただろうことは、容易に想像が出来た。
 その所為で、越前が確信をもてなかっただろうことも。
「それのどこが酷くないと言い切れるの?」
 顔を背けるに、不二の声にいつもの穏やかさはない。
 鋭い眼差しは、他人からの干渉を拒んでいるような彼女を刺すように放さない。それはも感じている筈だった。
 僅かな沈黙の後、は自嘲染みた笑いを漏らして不二に向き直った。
「私はね、この手から血が流れるまで……倒れて気が付いたら病院のベッドだったこともあった」
 そう言っては擦り切れた方の掌を強く握り締めた。歪む顔は、その痛みにではなく想いが故。
 ――初めて見る、の異常なまでのテニスへ対する執着心。
 それを目の当たりにして、不二は言葉を失くす。彼も人種的にはに近い為、その想いをなんとなくは理解出来た。
 しかし彼女のしていることはただの向上心ではなく、自分自身を追い詰めているに過ぎない。それで、自分の力を高めようとしているかのように。
 ……薄々は、気付いていた。
 は他人が傷付くことは嫌う癖に、自分のことになると余りにぞんざいだった。それが納得いかない反面、不二を苛つかせた。
 内に潜む醜い感情が、目を覚ますかのように――
 だがそれ以前に、なぜこうもは自分の身を大切にしないのか、不二には不思議だった。
 そして自分では何も出来ないのかと、無力な自分を攻め立てるかのように顔を歪める。





 目前で俯くようにして顔を顰めている不二に気付いて、は顔を上げた。
 見たこともない彼の様子に、は戸惑った。

 どうして君が、苦しそうな顔をするの?

 自分のことでもないのに、苦しそうな彼がには判らなかった。
 手を伸ばしたくても、それをすることは何か違う気がして、ただ不二を見つめた。
 そして不意にの脳裏に過ぎったのは、彼ほどではなかったけれどいつもより苦しそうな表情を浮かべていた、柳の姿。
 自分の腕を掴んだ彼が初めて見せた、切なくなるような顔が鮮明に浮かび上がる。

 ……そういえば皆も、あの時そんな顔してたっけ…。


 ポツリ、ポツリと。

 記憶の中の地面には、手から滴り落ちた鮮血が散っていく。


 ―― それはまるで、花びらのようだと思った。


 は思い出しながら空を仰いだ。
 広がる蒼は、端の方から徐々に橙色へと溶け始めている。



 ――――蓮二…。




















「………?」
 立海大学附属中学校の、テニス部専用の部室内。
 練習を終えて制服に着替えた柳が、ロッカーを閉めようとしていた時。不意に誰かに呼ばれた気がして、彼は宙を仰いだ。

 ――…

「どうしましたか?柳君」
 そう思って固まっていると、横にいた柳生に声をかけられ我に返る。
「……いや。何でも無い」
 柳生に答えるようにして、彼は頭を振りロッカーを静かに閉めた。
「まったくっ…何故、携帯に出ないんだは!?」
 床に置いたスポーツバックを柳が掴みかけると、真田が部室の中央で自分の携帯電話を睨みながら苛立ち気味に声を上げた。
 は滅多に自分から電話をしてこない。メールなら丸井達とやり取りはするらしいが、そんなものは面倒だと殆どしない真田は電話でしか連絡が取れなかった。
 今度こそと、真田は再びへ電話をかけ始める。先程からこれの繰り返し。
 周りの部員達はその様子を眺めながら、半ば呆れ気味である。とはいえ、部室に残っていたのはレギュラーメンバーのみだったが。
「ある意味、ストーカーじゃ…」
もウザいから出ないじゃねぇのー?」
「そんな筈は無い」
 逆に仁王と丸井はそんな彼を面白がってからかうが、真剣にやっている真田は反発する。大袈裟だが、彼の焦る理由が判っている柳は、小さく溜め息を吐いて真田に向き直る。
「弦一郎。急く気持ちは判るが、少し落ち着け。心配せずとも大丈夫だ」
 説得してみるが、携帯を握り締めた真田は睨むように柳へ振り返る。
「だがお前も気付いているのだろう。此処にいた時とは環境から違う上に、今の時期がを追い立てることは目に見えている。それに…」
 普段以上に険しい表情を浮かべて、彼は捲くし立てるように言った。
 確かに、もうじき大きな大会が控えている。
 立海にいた頃なら女子部も男子部同様、全国に通用する実力をもっていたが、が今いる青学の女子部がどれ程に強いのか真田達は知らないのだ。―― それでなくても、負けず嫌いなが無茶をしてしまうことを、彼らは知っていた。
 一度、言葉を切った真田はどこか躊躇いを見せながらも、逸らしていた目を再び柳に戻して強く言った。
「今のの傍に、お前のような者は居ない」
 それを聞いた部員達は押し黙った。その意味が、彼らには判るからだ。
 しかしその言葉を向けられた柳は、表情一つ動かさずに黙っている。
「何でなんスか…」
 言い表せられない沈黙を破ったのは、それまで黙って先輩達の会話を聞いていた切原だった。
「何で皆、そんなに先輩を心配するんスか?」
 切原には判らなかったのだろう。
 なぜそこまで彼女を心配するのか。なぜそこまで、に執着するのかが。
 確かに切原は後輩で、といたのは一年程だ。彼より一緒に過ごした時間が長いということもあるが、それにしては疑問に思うことが多かった。
 切原からしてみれば、どんなことがあっても自信に溢れた笑みを絶やさず、乗り越えていくしか知らないのだから無理もない。
 少し不貞腐れたような切原に、仁王達は肩を竦めて顔を見合わせる。
「君は知らないんですよ。私達は、彼女の様々な面を見てきました」
「そうそう。これが結構危なっかしい奴なんだって」
 まるで思い出話をするかのように、彼らは苦笑交じりにそう答えた。だがそれでも納得していないような切原を見て、真田が逆に問う。
「――お前は、が泣いたところを見た事があるか?」
 思いも寄らぬ質問に切原は目を見開く。
 驚きは喉を詰まらせ、切原は首を振ることで否定するしかなかった。
「俺はある」
 真田は静かにそう告げた。同意することなく、やはり柳は黙って眺めている。
「アイツは脆い。脆くて、孤独な少女だ」
 呟くような声音で、真田は部室の窓へと視線を向けたまま言った。
 確かに、は強い。
 凡そ普通の女子中学生がもち合わせていない強さと教養をもった彼女を、彼らは一目置いていた。ならどんなことも乗り越えられるのだろうと思っていた。
 だがそれは勝手な勘違いだった。身勝手な過信は、彼女を追い詰めるだけ。
 しかし、自身が誰も頼ろうとしていなかったのだ。
 自分で自らを高めて追い詰めて、ある日――限界が来た。
「アイツは何度倒れようとも、立ち上がろうとする。それが当然のように。身体は限界にも拘わらず、涙を流しても助けを請う事もせず…」
 思い出すのは、倒れたを抱き上げたようとした時に見た、涙。
 それはきっと真田も同じだっただろう。
 あの時、彼の腕の中にいたのは小さな少女だった。無力で儚い女の子だった。
「それにお前だって見ているだろう、一年の頃に」
「え…?」
 付け足すように言った真田を見ると、彼は微かに怒ってるようだった。それに気付いた切原はぎこちなく顔を逸らす。
 あの一件以来、真田はと切原の試合をさせないようにしていた。
 心配なのは判るが、いつも大袈裟なのだと柳は思う。
「だから決めたんだ。俺は、アイツを護ると」
 誓いのような言葉に、後ろにいた柳は微かに目を眇めた。
 彼の誓いは柳と同じモノだったが、全く違うモノでもあった。
 真田がそう思ったきっかけは、恐らく切原の一件だったのだろうが、柳はもっと前。



 あの、二年前の秋の出来事からだ――――