「「…………」」 何分が経っただろうか。 向かい合わせに座る二人の間に会話はなく、ノートに書き込んでいるペンの音だけが、静まり返った部室で微かに響く。 気を遣ってか、目前のは時折俺の手元に目を向けて、頬杖を付いたまま室内の壁や天井を眺めていた。 「ね、手塚」 不意に、が呟く。 「私と試合しない?」 普段と変わらない笑顔と声音で告げる彼女に、視線だけ向ける。 「……唐突に何だ」 「いや、君とテニスがしたいな〜と思ったから」 まるで遊びにでも誘うような調子だったが、その表情は愉しげな強さがあった。 普段は無邪気で明るく笑顔を絶やさない彼女は、テニスになるとその表情を変える。 その強さを帯びた笑みを見る度、は本当にテニスが好きなんだと実感させられる。だからか、自分の口元が自然に緩む事に内心で驚く。 「………いつかな」 顔を隠すように視線を落として答えれば、拗ねたようなが机に身を屈めて文句を言っている。 そのまま俺を覗き込むようにして、独り言のように話し掛けてきた。 「手塚ってさ、練習でもあんまりラケット持たないよね?腕かどこか、怪我してるの?」 その質問に俺は一瞬言葉に詰まってしまったが、辛うじて顔に出る事はなく、ゆっくりとに向き直る。 「何故そう思う」 逆に返した問いに、彼女は前のめりにしていた身を起こして事も無げに話す。 「君ほどの選手が試合は疎か、練習姿さえ滅多に見せないなんて、出し惜しみしてるかドクターストップがかかってるかのどちらかよ。君の性格からいって前者は有り得ないから、後者が有力。違う?」 最後に悪戯な笑みを含んで答えを促す。それに俺は驚くばかりで、すぐには答えられなかった。 の読みが総て当たりという訳ではなかったが、多少抑えているのは確かだ。 "肩"の事も知っている者は部内でも少数。それをこの短期間で疑うとは、彼女は自分が思っていた以上に長けた人間なのかもしれない。 内心でそう思いながら、黙ったままの俺を怪訝そうに見つめるから目を伏せて、静かに告げた。 「そういう事にしておいてくれ」 「ケチだな〜」 誤魔化されたはそれ以上追求する事もなく、また拗ねるように顔を膨らませた。 そんな彼女には構わず、俺は手元の作業を部誌から横に置いていた数枚の用紙へと移る。その時、不意に思い出して呟く。 「……そういうお前こそ、左腕」 「え?」 「極稀だが、反応が鈍る時がある。怪我、しているのか?」 手は動かしたまま視線だけ向けて訊けば、彼女は目を見開いて固まる。 だがすぐに顔を逸らし、横髪を掻き上げながら何かを諦めたような笑みで言った。 「なーんだ。もう見つかってた?」 まるで予想していたかのようなに、俺は黙ったまま受け留めた。この様子だと、弱点として本人は思っていないのだろう。 「傷痕だよ」 顔を背ける事なく、妙に落ち着き払った声音のに顔を顰める。 「左肩に昔・負った傷が残ってるの。と言っても火傷だけどね。たまにちょこっと痛むの」 「そうか…」 俺はただ、頷くしかなかった。その火傷の原因も気になったが、訊く気にはなれなかった。 その時のは普段の明るい笑顔ではなく、大人びた笑み。 ――何故かそれが、罪を受け入れて背負うような、強くも儚いモノに見えたのは俺の気のせいだったのだろうか。 再び、狭い部室に沈黙が訪れる。 それは決して苦痛には感じなかったが、先程に比べての存在が気に掛かるのは確かだった。 正面のはまた頬杖を付いたまま、試合結果やこれからの練習課目に関わる用紙処理を続ける俺の手元を見つめている。 「ねぇ…手塚」 「………」 また前触れもなくが呟く。 それには答えずに、俺は次の言葉を待った。 「キスしよっか?」 ガタンッ。 突拍子のない台詞に、不覚にも俺は腕を滑らせ身を崩してしまった。 「あ、動揺した?手塚でも焦るコトなんてあるんだ〜」 体勢を戻そうとする俺を、させた本人は悪戯が成功したとばかりに愉しそうに笑う。 「………俺で遊ぶつもりなら帰れ」 「ゴメン・ゴメン。ちょっとどんな反応するか気になっちゃって……怒った?」 僅かに怒気を含んだ声で言えば、は悪怯れもなく無邪気に笑って謝罪する。 簡単には許せなかったが、余りにも予想通りに謝るものだから、俺は床に落ちたペンを拾って椅子を戻しながら呆れ半分でに言った。 「暇と思うなら先に帰れ。ただ待つだけなど、お前には退屈なだけだろう」 「?…そんなコトないけど?」 顔は見ずに言うと、は本当に不思議そうな声で告げた。 俺が視線を向ければ彼女は苦笑気味に首を傾ける。 「数人で騒ぐのも好きだけど、私は静かな方が好きなのよ。寧ろ、落ち着くわ」 「……そうなのか?」 「うん。それになんか、手塚って雰囲気が似てるのよね。前いたトコの友人に」 意外な言葉に、珍しく俺が率直に疑問を投げればは笑顔で答えた。 普段、彼女は誰かといる事が多く、菊丸や桃城達といつも楽しそうに騒いでいるから、俺は賑やかな方が好きなんだと思っていた。 だから自分みたいな人間といる時は、無理して苦痛に耐えているのではないかと。 ……そういえば。 不二といる時だけ、は穏やかな表情をしていた気がする。 そんな事を考える反面、の話に出てきた友人という言葉に俺は思い当たる。 「立海か…」 「 そ。」 呟くように言えば、は満面の笑みで頷く。 それが何故か気に掛かって、自分でも驚いたが、続けて問う。 「誰にだ?」 「ん〜…真田と蓮二を足して2で割ったカンジだけど、どちらかというと……真田?」 「………」 視線を天井に向けながらの答えに、俺は思わず黙り込む。 「あ。今もしかして、落ち込んだ?」 「いや…」 「まぁ、気持ちは判るけどそう悪く考えないでよ。彼、あれで結構・面白いヤツなんだから」 「………」 「悩まないでよ…」 困ったようなには答えずに黙る内心で、俺はまた驚いていた。 大抵の人間は、俺が黙っているとやはりこの顔の所為か、怒っていると思う。だがは俺の表情を読み取った。 何というか、には驚かされてばかりだな…。 僅かに肩を竦めていると、クスっと零れるような笑いが聞こえた。 「何だ?」 怪訝な表情で訊けば、口元に手を添えたが無邪気な笑みを浮かべて答える。 「いや。手塚がこんなに喋るの見たのは、初めてだなーって」 「それがどうした」 珍しいモノを見るような目に、僅かに鋭い眼差しで返したのだが。 「嬉しいのよ」 はそれに嫌な顔などせず、寧ろ本当に嬉しそうに、穏やかに微笑った。 それはきっと、無意識に出た微笑みだったのだろう。 実際は何でもない事で、価値もあるとは思えない事に、彼女は幼い少女のように微笑う。それがとても嬉しいモノに思えた。 だからかは判らないが、自然と言葉が口から滑る。 「――何故、部活に入った?」 脈略のない言葉に、が息を詰まらせたのが判った。 僅かに俺の顔を凝視して、鋭い視線を向けてきた。 「…それは、君にも理解出来ると思うけど?」 先程とは僅かに違う雰囲気のに、俺はあの日の出来事を思い起こす。 |