transient days story [side F] ――――あの日。 初めて見た彼女の試合姿が、目に焼き付いて離れない。 興奮にも衝撃にも似た感覚は。 もしかしたら、"恋に落ちた"瞬間に、酷似していたのかもしれない… 他のクラスメイト達が下校し、二人だけが残る放課後の教室。 自席に着いて鞄に教科書などを入れていた時。 ふと顔を上げてみると、目の前に浮かんでいたのは透明な球体。 ……シャボン玉? 不思議に思いとんで来た方へ振り向くと、窓辺に立ち校庭へ向けて次々と小さな水の球体を楽しそうに作っている少女が一人。 その姿を見て笑みを零した僕は、そのまま吸い込まれるように彼女の隣りへと移動した。 「さん。ソレ、どうしたの?」 僕の問いかけでこちらを向いた彼女は、無邪気に話す。 「菊丸から貰ったの。待ってる間ヒマだから、やってみよっかなと思って」 「へぇ、楽しそうだね」 さんは再びシャボン玉を作り始める。 七色を帯びるいくつもの球体は、僅かに吹く風に煽られながら空に舞い上がっては弾けて消えた。 「ふわふわしてカワイイよねー。すぐ弾けちゃうのは寂しいけど」 呟く彼女の下では、部活生らが準備運動を始める姿がちらほらと見える。 自分達も所属するテニス部へと向かわなくてはいけないのだけれど、先生に呼び出されているクラスメイトの英二に待っててと頼まれたので、二人で待っていた。それに今から行っても時間が余るほど、部活の開始時間にはまだ早い。 「あ、不二もする?」 彼女が作るシャボン玉を眺めていると気を遣ってか、さんはスマイルが描かれた丸くて黄色いシャボン玉液の容器を僕に差し出してきた。 その表情は明るく、可愛いとも言える。彼女はいつも笑顔を絶やさない人だった。 「…さん。僕と二人でいる時は、ムリに明るくしなくてもいいよ」 「え?」 穏やかに言う僕に、さんは目を丸くする。 初めて教室で見た時も彼女は笑っていた。その明るい印象が良かったのか、持ち前の人当たりの良さのお陰か。さんはすぐに僕らのクラスに溶け込み、今ではちょっとした人気者だ。 その所為という訳ではないだろうが、彼女は決して弱いところを見せない。 確かにさんが転校して来て、それほど日は経っていない。彼女の全てを知るにはまだ時間が浅過ぎる。 けれど僕にはさんが自ら明るく振る舞っているように見えるのだ。大袈裟にいえば、本心を隠すように自分を演じているのだと。 「だって、それがホントの君じゃないでしょ」 「何のコト?」 続けて言うとさんは動揺した様子もなく、笑顔でかわそうとするけれど。 「僕に、それはムダだよ」 それに負けず劣らない笑みを浮かべ、有無を言わさぬ声音で切り返す。 生まれる沈黙。先にそれを破ったのは、諦めとも後悔ともとれるさんの溜め息。 「……あー、二人目だ…」 「?」 片手で顔を覆って呟く彼女に首を傾げていると、落ち込んだように肩を竦めてから、僕に振り向いて上目遣い気味に訊いてくる。 「ねぇ。私って、そんなにわざとらしい?」 多少真剣に尋ねる質問の意味が判らず、困惑してしまった。 「わざとって…?」 「前にも見破られたコトあるんだよねー。その時は今みたいに明るくなくて、ホントに愛想笑いしかしてなかったから、バレたんだと思うけど」 思い起こすように話すさんは、バツが悪そうな苦笑い。 「それっていつの事?」 「二年前」 何気なくした質問に、彼女は即答した。 ……二年前といえば僕らは中学一年生だ。そして彼女は、立海大附属中学にいた頃―― 「別にね、隠してるつもりはないよ。いつもの私だって、演技じゃなくて結構・素だよ?」 「でも、根本的なトコは僕に近いモノを感じるんだよね」 「………それケッコー心外」 「どういう意味かな?」 思ったままを伝えたが、なぜか彼女は脱力しながら顔を逸らす。それに一応、満面の笑顔で訊き返してみるけど、さんは答えないまま押し黙ってしまった。 再び、沈黙が続く。 校庭へ向ける彼女の横顔を、教室へ流れる風によって長い黒髪が隠す。それに倣って、僕もただぼんやりと校庭を眺めた。 と、不意にさんが口を開く。 「……中学に上がった時まではね。こんなに明るくなかったんだよ、私。笑顔を貼り付けたみたいに笑って、人が良さそうに振る舞いながらも他人を拒絶してた。――ま、他人行儀っていうのは今も変わってないと思ってるけど」 「それでも、前とは違ってるんだよね?」 「うん……価値観も景色も変わって、大袈裟だけど世界が変わってた。私自身、こんなに変われるなんて思ってなかったよ」 呟くように話す彼女の表情は、初めて見る、とても優しい微笑みだった。 その他人の心さえも穏やかにしてしまいそうな微笑みが、却って僕を不安にさせる。 人間は、そう簡単には変われない。 今のさんしか知らないから、自分には彼女の言う"昔のさん"が想像出来ない。それでも彼女が変わったと言うのなら、その原因が必ずある筈。 人間は、そう簡単には変われない。自分で変わろうとしてもそれは不可能に等しい。……けれど、変えることが出来るとすればそれは同じ"人間"だ。 「それは…――誰のお陰?」 思わず訊いた質問に、さんは驚いたけれど。すぐに顔を空へと向けて零れるように微笑った。 ズシリ、と。 何か、酷く重いモノが自分にのしかかったような感覚に襲われる。 ――きっと、今のさんの瞳には僕の知らない人が映っていて、それは今も彼女を支えているんだ。 自分の想像もつかない絆のようなモノが、さんと僕との間に壁となって立ち塞がっているように思えた。 ……なんて、遠いんだろうと。 思い知らされた距離に、戸惑いを隠すのに必死だった。それでも隣りのさんには気付かれず、彼女は少ししまったという顔をして呟く。 「……ちょっと、喋り過ぎたかな。忘れて」 窓枠を掴んだ腕を伸ばしながら背伸びをする彼女に振り向くと、校庭を見下ろすその表情がみるみると明るくなっていた。 「あっ越前だ!おーい、えっちぜーん!!」 さんが窓から身を乗り出して力一杯手を振る先には、テニス部コートに向かっていると思われる越前の姿があった。 「お!先輩だ!! 先ぱ――いっ」 「やっほー堀尾!元気ィ?」 しかしそこには彼だけでなく、越前と一緒にいたのは一年トリオとも呼ばれている堀尾・水野・加藤。彼女の呼びかけに越前は一瞥しただけで、代わりに堀尾が手を振り返している。 尚も呼びかけるが振り向いてくれない越前に、さんは残念そうに、けれどどこか楽しそうに呟く。 「相変わらずツレナイなぁ、越前てば」 「随分、彼を気にかけるんだね」 隣りにいるのにも拘らず、越前しか見ていない彼女に疎外感を抱いてしまった僕の声に、普段の穏やかさはなかった。 「まーね。私、越前のコト気に入ってるから」 けれど気付いていないさんは、また楽しそうに言う。 彼女が初めに出会ったのは、僕や英二ではなく、越前が先だった。 聞いた話によれば二人は試合までしたらしい。だからなのか、さんはよく越前をからかったり、やたら一緒にいようとする。 なぜ、越前だったのだろう…。 もしその時出会ったのが彼ではなく、自分だったなら、その瞳は僕に向いていたのだろうか――? 目に見えない脅威より、目前の存在に焦りを感じて彼女を呼んだ。 「さん」 「え――」 振り向くより先に、さんの腕を掴んで自分に抱き寄せた。その反動で、彼女が持っていたシャボン玉液の容器が床へと落ちる。 「「「あ―――ッ!!」」」 下からそれを目撃したらしい堀尾達の叫び声が聞こえる。 その大きな声に流石の越前も驚いたのか、進めていた足を止めて振り返ろうとしていた。 けれど彼が振り返りきる前に、僕は窓に取り付けてあるカーテンを思いっきり引っ張って、自分達を隠した。 その時、間違いなく目が合った越前に、笑みを浮かべながら。 |