先輩たちが帰ってから、二時間ほど経った窓の外を見れば、陽は確実に夕暮れへと傾いていた。 正確な時間を壁にかけてある時計で確かめてみれば、そろそろ閉館の時刻。俺は退屈でイスに座りっきりだった身体を背伸びさせて、はた、と思い当たる。 不二先輩がここを後にしてから、俺はずっと受付にいたが、先輩の姿を目にしていない――つまり、まだ帰っていないということだ。 俺は腰を上げ、受付から離れ二時間前に先輩を見た席へ向かって、困惑した。 オレンジがかった陽射しが当たる、窓際の席。机の上に無造作に置かれた本に囲まれるように、先輩は気持ちよさそうに眠っていたのだ。 ………どうすればいいんだろう…? いや、やるべきことは決まっている。図書館を閉める時間なのだから、先輩を起こして閉める作業をして帰ればいい。 だがなぜか俺はその場から動けずに、ただ先輩の寝顔を眺めていた。気がつくと、静まり返った館内には俺と先輩の二人のみ。 サラリ、と。 開け放たれた窓から、緩やかな風が流れて先輩の長い髪を揺らす。射し込む陽の光が先輩を照らし、まるでかすんでゆく光景がとても、綺麗だと―― そこで俺は咄嗟に顔を逸らし、頭を抱えた。 何、考えてんだろ…俺。 余りにも己の頭で処理できない感覚を降り払って、それでも再び先輩に目を向けた。 先輩は、本当に変わった人だった。 面白い人だと断言してもいいだろう。……確かに苦手ではあるが、正直、俺がこの人に興味があるのも確かだ。 それが選手としてなのか、先輩自身についてなのかと訊かれたら迷わず前者だと答える。けれど今は―― 「ん……」 その時、眠っている先輩の呻き声で思考を遮られる。見れば、寝苦しいのか眉間にシワを寄せ、その表情は苦しそうだった。 恐い夢でも見ているんだろうか?―― そう思って、先輩を起こすために身体を揺する。どの道、起きてもらわなければ俺が帰れない。 「先輩、起きて下さいよ。先輩っ」 「ん〜〜…」 俺の呼びかけに唸りながら、先輩が重たい瞼をゆっくり開けると思った次の瞬間、その瞳は大きく見開かれた。 「――ッ!! ま…」 とび起きるように上体を起こした先輩に、驚いた俺は仰け反るように固まってしまった。 それに気づいた先輩は、安堵の溜め息のようなものを吐いて、悪態つく。 「……なーんだ、越前かぁ。もう脅かさないでよ。女の子の寝顔覗くなんて、失礼だよ?」 寝起きの割に元気でいつもと変わらない口調の先輩に、俺は呆れて言い返す。 「ソレ、前に俺が言わなかったっけ?」 「あれ?そーだっけ?」 ジト目で見返す俺に、先輩はとぼけた顔で首を傾げるが、すぐに笑顔に戻って身を乗り出してくる。 「じゃあ、これでおあいこだね」 う…! すぐ目前にある、無邪気な笑顔に俺は呻いてしまった。勿論、心の内でだが。 今のは不意打ちだ。反則に近い。 それでも先輩がすぐに離れたから、平常心を取り戻して質問をする。 「うなされてたけど……悪夢でも見たんスか?」 「えっ?あー…」 何気なくした質問だったが、先輩の歯切れは少し悪かった。なぜだろうと思いながら、返答を待つ。 「実は登場人物全てが眼鏡をかけてる夢を見てね。でもなぜか、手塚はいつもの眼鏡じゃなくてガリ勉みたいなビン底眼鏡(しかも本人は気づいてない)。乾に至ってはハナ眼鏡だったよ」 どんな夢だ……。 思わず想像しそうになってなんとか阻止した。ヘタしたら、可笑しいどころか似合いすぎて恐い気がしたからだ。 俺が脱力しているのを見て、なぜか先輩は慌て始める。 「あ、もしかしてもう閉館の時間!? ごめん、長居しちゃって」 身の周りを急いで片づけ始める先輩に、俺はそういえばそうだったな、と今更ながら思い出す。 「別に。まだ時間前だし、そんなに焦んなくてもいいっスよ」 「でも本・戻さないといけないから」 「借りていかないんスか?」 「うん。本の種類の確認と、ちょっと勉強してただけだから」 そう言って本を元の場所へ戻そうと本棚へ向かう先輩を手伝おうと、残りの本を持って後を追う。そこでふと、手に持つ本に目を向けた。 さっき先輩が寝ていた時にも目にしたが、それは部長たちが借りた本よりも更に難しそうな本ばかりだった。 辛うじて判るのが、それが恐らくは政治や経済についての専門書だということ。およそ中学生が読んで理解できるモノではない。大人でも、興味がなければ読むことはないだろう。 「先輩は将来、こっち方面に?」 こんな本をいくつも並べて勉強していたくらいだ、そう考えても不思議ではない。俺の疑問を受けて、本を戻しながら先輩が天井を仰ぐ。 「ん〜…多分、そうなると思うわ。はっきりしてる訳じゃないから、今は趣味の一つとして勉強してるの」 「……テニスは?」 その答えに、思わず浮かんだ疑問を俺は無意識に口にしていた。なぜかは判らない。ただ、勿体なく思ったのかもしれない。 先輩はそれにただ微笑むだけで、本を戻す手を休めない。 「…出来れば続けたいと思う、けど難しいかな?今・思いっきりやれてるからそれで結構、満足」 「ホントに?」 一番下の棚に本を戻して立ち上がる先輩に、俺は呟く。 答えを求めていた訳じゃない。自分でもなぜか判らなかったけど、ただ、どんな反応をするのか気になった。 今、背を向けている先輩は、どんな表情をしているんだろうと。 ゆっくりと振り返った先輩の顔は、夕日の逆光ではっきりと見ることはできなかった。 それでも、目を細めて見た表情は――超然とした微笑み。 「そういう越前は?」 「…え?」 息を呑むように固まっていた俺の思考を取り戻すように、先輩の声で我に返った俺は訊き返す。 「越前は将来、プロのテニス選手になりたいの?」 飛躍しすぎている気もする質問に、一応考えてみるが、答えなど出るはずもなかった。 「……さぁ?あんま考えたことないから」 「何ソレ?じゃあ、君は何の為にテニスをしているの?」 人事のように答える俺に、カバンを置いている席へ戻りながら先輩は吹き出すように苦笑して、質問を変えた。それに思わず瞬きをする。 愚問といえば、愚問だ。 好きなことをするのに理由がいるのなら、全てのモノに理由が必要になるだろう。 俺にしてみれば、自分がテニスをしている理由は"本能"に近いと思う。だが、"何の為"と訊かれれば、思い当たることが一つ。 「――倒したいヤツがいる。テニスで」 瞳を見据えるよう、毅然とした声で答えると先輩は満足そうに微笑っていた。そして机の上に出していた自分のノートやペンケースをカバンにしまいながら、呟く。 「そっか。目標があるのは良いコトだよ、やりがいがあるしね」 「せ…」 まるで、自分に言い聞かせるような先輩の横顔が少し淋しそうで、言いかけた声が言葉を紡ぐことはなかった。 "先輩は、どうしてテニスをしてるの?"と。 訊けなかったのはその表情を見たからでもあるが、訊いても先輩は答えてくれない気がしたからだ。あの取り留めのない穏やかな笑顔で、かわされてしまうのだろうと思ったからだ。 ――――不二先輩なら? 脳裏に過ったその言葉に、二時間前に見た光景を思い出して、俺は再び焦りを感じて頭を振る。 不二先輩になら先輩は答えるのかもしれないと、考えた自分に腹が立つ。その理由が判らない以上、余計にだ。 そんなことを考えていたせいか、少し俯く俺を不審に思った先輩が、怪訝な表情で見ていたのに気づく。それに焦ってフォローしようと思考を巡らせるが、こんなことしか思い浮かばない。 「…先輩っ帰りに俺と打ち合わない?近くにいいストリートテニス場があるんスよ」 多少ムリがあると思いながら先輩の反応を伺うと、驚いていた顔はなぜかイタズラな笑みへと変わっていった。 「それって、デートのお誘い?」 「…何でそーなるんスか」 何がそんなに楽しいのか、無邪気な声で訊いてくる先輩にまた呆れた表情で返した。それでも先輩は気分を害した様子もなく、明るく答える。 「女の子と男の子が一緒に行くっていったら、デートでしょ?」 「コートでテニスすることが?…そんなこと言うのは先輩だけっスよ」 「そーかなぁ?まいっか、いいよ。部活がなくて身体が鈍ってたトコなの。眠気覚ましにもなりそうだし」 一度、背伸びをしてから話に乗ってくれる先輩に、嬉しさを隠して挑戦的な態度をとる。 「イイんスか?そんな余裕ぶってて――本気でいきますよ」 「…望むところだわ」 それに答えるよう、帰り支度を済ませた先輩が肩にカバンをかけながら、強気に答えてくれる。その緊張感が、俺には心地よかった。 これで、いいんだ。 頭であれこれ考えるのは、性に合わない。結局、さっきまで自分の中にあったモノが何なのか、理解することはできなかったがそんなことはどうでもいい。 先輩とこうして傍にいること。一緒にテニスをやれることが、今は一番楽しいからと。 この後の打ち合いに期待を膨らませて、俺は先輩と共に図書館を後にした。 そう、今はまだ。 ―― それはまるで、イタズラな風のように。 彼女は僕らの心に、小さな種を落としていった―― †END† 初出 04/10/22 編集 07/09/29 |