―― その人は突然、僕らの前に現れた。


 無邪気な笑顔が印象的で、その掴み処のない仕草に僕らはいつも、振り回されてばかり。なのに、時折見せるその心はとても深くて強いことに、驚かされる。

 彼女といると風は優しく、彼女が微笑えば、世界は色鮮やかなモノのように感じられた。

 そして気がつくと、彼女は僕らのナカに、入り込んでいたのだ。


 それはまるで、イタズラな風のように――…










 transient days story


 [side E]










 青春学園の図書館は、校舎内ではなく、校舎と正門を挟んだ敷地内にある。
 けれどその割に利用者は多く、昼休みと放課後には必ず図書委員は仕事をしなければならない。例えそれが、自分の意志に関係なく押しつけられて勝手に決定された役員でも、だ。

 …メンドくさ……。

 俺は図書委員の定位置である、受付机の前で座っているイスを傾けながら天井を仰いだ。
 普段ならもう、テニス部の練習をしている時間。
 しかし今日は運が悪かったのか、いつもかわして(サボって)いた当番の日に、担当である教師に捕まってしまったのだ。その上、今日に限って図書館に訪れる生徒は少なくて 、俺はヒマを持て余していた。
 そんな清閑な館内を見渡していた時、不意に出入口の扉が開かれる。
「――アレ?越前だー」
 少し高めの声に振り返って見れば、入って来たのは先月この学園に転入し、女子テニス部に所属する
 長い黒髪に、決して身長が低い訳ではないが小柄な少女は、これでも二つ年上で自分の先輩だ。
 そして、かなりの実力をもった天才テニスプレイヤー……だと、聞いている。
 確かに俺は、初めて会ったその日に彼女と試合をして、完敗した。だが、それだけで先輩の実力を計り知ることは出来なかった――向こうは、ほんの遊びのようだったからだ。
 俺を見つけて、こちらへ駆けよる先輩の後ろからは、男子テニス部の先輩である手塚部長に不二先輩・菊丸先輩・乾先輩らが続いて入って来る。
「そういえば、おチビって図書委員だったっけ」
「へぇ、そうなんだ。ってコトは今日が当番の日!? じゃあ私・毎週ココに来ちゃおっかな〜」
「え…?」
 菊丸先輩の言葉を聞いて、嬉々とした声で無邪気に身を乗り出してくる先輩に、俺は思わずたじろいだ。

 この人は、どうも苦手だ……。

 それは俺が先輩に出会った時から、思っていたこと。
 平気で人に抱きついてくるし、抜けているように見えて実は結構、強引な性格だったりする。
 元々、女子に対する免疫があるとは言えないが、余りに今まで自分の周りにいなかったタイプなだけ、俺は先輩にどう対応していいのかいつも困っていた。向こうもそれが判っているのか、楽しんでいるから始末が悪い。
 そもそも、なぜ俺はこの先輩に気に入られているのだろうか…………気に、入られてんだよな?これは。
「毎週、部活をサボる気か?
 俺が返答に困っていると、先輩の隣りにいた手塚部長が嗜めるように尋ねる。それに苦笑しながら、先輩は振り向いて、
「やだなー。ちょっと言ってみただけだよ。そんな細かいコト気にしてたらぁ――ハゲるよ?」
「「「!?」」」
 何の邪気を含まない笑顔で、暴言を吐いた先輩に全員が驚くが、当の部長はショックで人一倍驚いていた。
「にゃはは。一本取られたね、手塚」
「英二。ソレ使い方間違ってるから」
 固まっている部長に、空気の読めていない菊丸先輩が無邪気に笑うのを、穏やかな笑みでツっ込む不二先輩。
「だが。この曜日に来ても、越前に会える確率は10%も満たないぞ。俺はよくここに来ているが、越前が受付にいるのを見たのは今日が初めてだ」
「えー何ソレー?ダメだよ越前。面倒だからって、仕事サボっちゃあ」
 先輩たちのやり取りを半ば呆然と見ていたら、乾先輩が余計なことを言ったお陰で、機嫌を損ねたような先輩に注意をされてしまった。
 しかしそれに答えるのが面倒だった俺は、当初から思っていた疑問を投げる
「……で、一体何なんスか?大勢で…」
「へ?多いかな?」
「まぁ、確かに本を読みに来る人数じゃないかもね」
「部活はどうしたんスか?」
 首を傾げる菊丸先輩と不二先輩の答えには構わず、続けて尋ねると一瞬・先輩らは目を丸くした。それに今度は俺が首を傾げていると、代表してか乾先輩が口を開く。
「今日の部活は、昼休みに行った次の大会に向けてのミーティングだけと、連絡してあったんだが…越前、聞いてなかったのか?」
「え…マジっスか?」
「マジだよー。残念だったねぇ越前。因みにその時、ミクスドの件もあって男女合同だったでしょ?だから女子部も休み」
 半信半疑で訊き返したのに対し、先輩がイタズラな笑顔で答えたのを聞いて、俺は思わず脱力した。
 この退屈な仕事が終わったら、部活で発散できると思っていたのに。これではストレスを溜めるばかりだ。
「それでね。私、まだ図書館に来たコトなかったから、行ってみよーかな?と思って」
 そんな俺に気づいてか、苦笑い気味で先輩がここへ来た理由を説明している横で、不二先輩が笑顔でつけ足す。
「だから、僕と英二がその案内役」
「別に構わないのに…」
「遠慮すんなって。迷子になったら大変だもんな」
「ならないよ」
 菊丸先輩のボケにしっかり返す先輩の反対側で、三人の様子を眺めていた手塚部長と乾先輩に話しかける。
「じゃあ、部長や乾先輩は?」
「俺は課題の参考に借りていた本を返却に来ただけだ」
「俺もこれを返却に…」
 部長がカバンから取り出したのは、小難しいことが書かれていそうな数学の参考書。…これはまだいい。普通だ。
 しかしその隣りに置かれた数冊の本を見て、その場にいた乾先輩以外が沈黙せざるを得なかった。
『………………』
 それは、見た目は生物やら家庭科やら保健体育の専門書ではあるのだが、乾先輩が借りたという時点で、その用途に不吉を感じさせる物ばかりだった。
 極めつけは、目にとび込んできた『本当は身体に良いゲ○モノ料理』という本……。
「ん?どうした?」
「いえ…なんでもないっス」
 もう疑問もツっ込みも放棄した俺たちに、当人は心底不思議そうな表情で訊いてくるが、微笑っている不二先輩を除いたメンバーは、一様に見なかったことにした。
「――お。やっぱりここにいた」
 その沈んだ空気の中、扉が開く音と共に聞こえてきたのは、爽やかさを感じる少年の声。振り向くと、大石先輩と河村先輩が図書館へ入って来ていた。
「大石、タカさん」
「よく居ると判ったな」
 姿を見て呼びかける先輩の後に、手塚部長が尋ねる。それに大石先輩の後に続きながら河村先輩が答えた。
「あぁ。表に女子達が集まっていたからね。もしかしたらと思って」
「ありゃー。確かにこんだけ男子部レギュラーが揃ってれば、女子達が騒ぐはずだよ」
「そんなモンかにゃー?男ばっかでムサイじゃん」
 明るい声で男の自分からすれば理解できないことを、先輩は納得したように言う。それは菊丸先輩も同じなのか、不服そうに首を傾げた。別に女子といつも一緒にいたいなんて思わないが、こんな男ばかりが集うのも楽しいものではない。
 それを自覚した先輩たちは、少し嫌そうな表情だった。だが、それを救うような不二先輩の一言。
「そんな事ないんじゃない?ホラ、いるじゃない。ここに紅一点」
「ん?」
 肩にポン、と手を置く不二先輩に先輩は目を丸くした。そんな先輩を見て、その場の雰囲気は寒いモノから暖かいモノに変わったのは、俺の錯覚ではないだろう。
「え…?何でそんな和んだような目で私を見るの?」
「ね?」
「"ね?"じゃ判んないよ」
 安堵する先輩たちに、訳が判らないらしい先輩。それが楽しいのだろう。そのまま彼らの話は弾む。
 受付の机を挟んでいる俺は、少しだけ疎外感を感じた。
 先輩たちは、仲がいい。
 同学年だからというのもあるのだろうが、俺は先輩が一人でいるのを、余り見たことがない。大抵、男子部のメンバーと一緒だった。特に――
 俺は不意に、先輩たちの中心で楽しそうに笑う先輩を見た。
 自分が気づくくらいだ、学園内で噂になっていないはずがない。クラスメイトの堀尾と………誰だったか。ツインテールのよく見かける女が煩いほど騒いでいた。
 そいつらの話によれば、前に起きたある事件をきっかけに、先輩たちの仲が深くなったに違いない、というのだ。

 それは事件というほどのものでもなかったらしいが、先輩が転校して来てから二週間も経っていない間に、女子テニス部の方でいざこざがあったらしい。
 原因は、女子部のミクスドメンバーに急遽、先輩を入れたこと。
 選手枠の人数は限られているから、先輩を入れるとなれば既に決まっていた選手を外すことになる。なら当然、外された者は納得いかないだろうが、いきなり現れた何も知らない転校生にそんな大役を横取りされたことが許せない、というのが本音だったのだろう。
 その時、先輩を助けに入ったのが先輩ら、三年レギュラーだったというのだ。
 それは放課後で部活終了後に起こったことらしく、俺や二年のレギュラーである桃城先輩や海堂先輩も全く知らず、噂でしか聞いたことがない。そのため、真実を知るのはその場にいた先輩を含む女子部と、三年レギュラーのみ。
 だがそれ以来、確かに先輩たちの彼女に対する評価は、高くなったと感じられずにはいられなかった。ある話によれば、先輩が女子部の部長と試合をして、圧倒的な強さで勝ったとも耳にしている。
 だからその騒動のお陰で、彼らの絆は強くなっているのかもしれない。

 暫らく先輩たちの会話を聞いてるつもりで、右から左へと流しながら眺めていると、大石先輩が切り出す。
「余り長居しても悪いな。そろそろ帰ろうか」
「えー、もう?」
 促す先輩に、不平を漏らす菊丸先輩。だがそれだけで、既に足取りは出口である扉へと向けられている。
「あ、私は残るよ。捜したい本があるから、越前。案内お願いしていいかな?」
 軽く手を挙げながら言う先輩に、急に話を振られて戸惑いながらも答えようと俺が口を開きかけると、不二先輩に遮られる。
「それなら僕がしてあげるよ。越前の仕事の邪魔しちゃ悪いだろうし、僕もここには結構来るから大体判るよ」
「そっかー…仕事の邪魔しちゃ悪いよね。じゃあ、お願いするよ」
 不二先輩の申し出に、なぜか納得しながら先輩が頼む。いや、それも一応仕事の内なんだけど、と見上げた不二先輩の顔は――不敵な微笑。
「……!」
 それは確かに自分に向けられたもので、滅多に見せない蒼い瞳に思わず息を呑む。
 動揺を隠せないでいる俺に、当然気づいているであろう先輩は、けれど何事もなかったように、図書館を出ていく大石先輩たちへ振り向く。
「じゃあな、余り遅くなるなよ」
「まった明日ー♪」
「うん。じゃあねー」
 手を振り合って出ていくのを見届けてから、先輩と不二先輩の二人もまた後でね、と言葉を残して館内の奥へと向かって行った。
 それを眺めながら、俺は再び静寂とヒマになった現実に溜め息を吐く。
 しかし、ただぼうっとするのも時間のムダだと思い、先程返却された本を所定の棚へ戻す処理をすることにした。後に回してまとめてするより、時間潰しにはなる。
 受付から離れ片手に数冊の本を抱えながら、俺は背表紙に貼られた番号を頼りに、それぞれの本棚に振り分けられた番号と照らし合わせる。
 部長が借りていた参考書の場所はすぐに判ったが、乾先輩の物ははっきりいって本の種類の選別も難しくかなり捜した。ほぼ余り借りられていない本に間違いない。
 少しさ迷うように本棚の周りを歩き回っていると、背後から聞こえてきた微かな笑い声。
 その聞き憶えのある声に振り返れば、いくつもの本棚が一定の間隔で立ち並ぶ一ヶ所―― そこには、先輩と不二先輩がいた。
 肩を寄せ合って見えるのは、図書館という静かな場所で小声で話しているせいだろう。こちらに背を向けている不二先輩の隣りで、手が届かない棚の本を取ってくれる先輩に、先輩は嬉しそうに微笑っていた。
 ―― そう。特に、不二先輩と先輩は仲がいい。
 よく見かけるのがその二人と菊丸先輩とのスリーショット。同級生だからというのもあるが、それでも不二先輩と先輩の仲のよさは、抜きに出ているような気がしてならなかった。
 ……多分、先輩に自覚はないだろう。だとしたら、不二先輩の方が彼女を気に入っているのだ、と思う。
 そう考えながら、今も楽しそうに話す二人を見て、なぜか俺は胸にもやもやしたモノを感じた。それと同時に募るイラ立ち。
 焦りにも似た感覚は、さっき向けられた不二先輩の視線に感じたモノと同じだった。ただその理由が判らない以上、イラ立ちは増すばかり。
 立ち尽くしたまま、俺は正体不明な感覚に戸惑っていたが、このまま悩んでいても埒があかないと割り切って、さっさと仕事に戻った。
 何より、二人を見ていることが少し、辛かった。










 仕事もこなし、いよいよ本当にヒマになっていた頃。
 俺がその辺にあった本を適当に取ってパラパラと捲っていると、カバンを抱えて帰ろうとしている不二先輩が目に入った。
「アレ?不二先輩、帰るんスか?」
「うん。もう役目を終えたからね」
 呼びかけに受付前で足を止めた先輩は笑顔で頷いた。しかし俺は、もう一人の姿を求めて辺りを見渡す。
「…先輩は?」
「彼女はまだ残るって。勉強するみたいだから、邪魔になると悪いしね」
「ふーん…」
 不二先輩の言葉を聞きながら、俺は館内にある机について周りにいくつもの本を並べている先輩を見つけて、相槌を打つ。
「―― 気になるのかい?」
「え?」
 知らない内に見入っていたのか、顔を背けている俺に不二先輩が呟いた。
 けれど、余り耳に入っていなかったため、聞き返した俺に先輩はクス…と微笑うだけで、受付から離れながら言う。
「いや、さんが勉強に夢中になって帰りが暗くならないよう、見張っておいて」
 恐らくは冗談で言っているのだろうが、判ったような不二先輩の言う通りになるのが癪で言い返してみる。
「暗くなる前に、ココ・閉まると思うんスけど…」
「そーかもね。じゃあ、越前。また明日」
「はぁ…」
 しかし先輩はいつもと変わらない笑顔で別れを告げながら、釈然としない俺を残し、図書館から姿を消した。