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 休み時間。私が教室へ戻ろうと歩いていたら、とある教室前にて。
 室内で何やら作業をしている乾 貞治を見かけた。
 少しだけ考えて、足をその理科室へと向ける。本鈴までまだ時間はあるしね。
「何してるの?乾」
 足を忍ばせて、彼の後ろからひょこっと手元を伺う。
 それに乾は驚きもせず、頭だけで振り返って得意気に答えた。左手にはなぜか試験管。
「今日、部活で使用する特製の野菜汁を作っているところだ」
「へぇー……」
 理科室で?とは訊かなかった。まぁなんとなく、乾には合ってる気もするし…。
 家庭科室で調理といえば割烹着を連想して、割烹着姿の乾を想像して私は心で大笑いした。
「…何を笑っているんだ?」
 いや、顔に出てたみたいね。
「ううん。何でもないよ――それにしても…」
 言いかけて、彼の周りに並べられた材料というべき物を見渡す。
 乾のことだから、部員達の健康を考慮しての材料なんだろうけど種類がかなり豊富だ………一体どんな味になるのか想像しかけてやめた。

 寧ろ、これを飲む羽目になる部員達の方が心配だよ。

 手際よく野菜汁を作っていく乾の手元を眺めていると、彼にしては珍しく少し躊躇った口調で訊いてきた。
「――…蓮二は、元気なのか?」
 言葉の意味を考えて少し固まる。
「…なんだ、その鳩が豆鉄砲を食らったような顔は?」
 ………かなり驚きが顔に出ていたみたい。いけない・いけない、油断し過ぎちゃったよ。
「いやーちょっとね、まさかそんなコト訊かれるなんて、思ってなかったから」
「…意外か?」
「ううん。君なら知ってると思って………仲、良かったんでしょ?」
「小学の頃は、な。それに知っていると言ってもテニスに関するデータまでだ。本人の体調までは判らないだろう。直接、連絡しない限りはな」
「まぁ、そうだけど」
「それにアイツが健康だろうと不健康だろうと俺にはどうでもイイ」
「じゃあ何で訊くのよ…………私も、メールするのも稀だし、元気なんじゃない?蓮二なら」
 脱力した後、気を取り直して軽く答えながら、私は廊下側の窓へと歩いて柱に凭れかかる。
 視線を乾へ戻すと、厚い黒縁眼鏡の下でも彼が驚いているのが判った。それが不思議で軽く首を傾げる。
「?…どうかした?」
「あぁ、いや…」
 珍しくどれから話そうかと迷うような素振りで、それでもはっきりと乾は言った。
「…信頼、してるんだな」
「誰を?」
「蓮二を――というより、立海の連中をか」
 言葉を選ぶように淡々と紡ぐ彼に、私は自分でも無意識に表情を消して視線を向ける。
「……どうして、そう思うの?」
「心配をしていないという事は、興味が無いか信用しているかのどちらかだろう。まぁ後は…俺の感だ」
「へぇ、乾でもそんなこと言うんだ」
 けれど乾は私を見ることなく、先程から続けている作業へと戻っていて、今は何かをノートに書き込んでいる。
 それを見て思わず苦笑した。勿論、乾に気付かれない程度にだ。
 ――やっぱり、彼は蓮二に似ている、と思う。
 口に出したら蓮二も乾も、否定するだろうと思うとまた可笑しくなった。
 沈黙が訪れて、教室の外から聴こえる人の声とも音とも取れぬざわめきの中で。
 私は頭ごと視線を床に落とした。
「……信じていたのは、確かだよ」
 初めて出来た、心を許せる友人――仲間達だったから。
 自分にとってそれは今更なことだった。わざわざ確認をして言葉にする必要もない、当たり前なこと。
 暫く黙っていたのを怪訝に思ったのか、乾が呼びかける。
「――どうした?」
「……ううん。なーんでもないよ」
 極力、不自然でない声の明るさで私は顔を上げて笑った。これで大抵の相手は安心をして、何も訊いてはこない。
 そして、乾のような頭の回転の早い者に対しては、それ以上訊いても無駄だと判断して諦める。
 私はそれを見越して、軽く背を伸ばしながら話題を変えた。
「そういえば、何でココの女テニのレギャラージャージってオレンジなのかなー?」
 突拍子のない話に、流石の乾も不意を衝かれたように止まって、漸く声を出した。
「……嫌なのか?」
「そうじゃないけど。立海の時もオレンジだったし、青学の男子ジャージ見て青だと思ってたからちょっと残念ー」
 拗ねるように呟いた私に、乾は苦笑するように相槌をした。こればかりは女の子にしか判らない拘りというヤツだ。
 あっちにいた時は男女でレギャラージャージがオレンジだったから、ここでもそうだと思っていたのは勝手は言い分だけど、仕方ない。
 夕陽のようなオレンジも好きだけど、青学のあの鮮やかなブルーも気に入ってるんだよねと、そんな他愛のない話をしていた時、私の後ろから明るい声が聞こえた。
「――こんな所でナニやってんの?
「菊丸」
 開け放っていた廊下の窓から顔を覗かせていたのは、クラスメイトの菊丸英二。不思議そうな顔で室内の乾にも気付く。
「にゃ?乾もいる。もうすぐ授業始まっちゃうよー?」
 どうやら教室へと戻っているところだったらしい彼の言葉で、私は壁時計を見上げて休み時間が残り少ないのを知る。
 乾はその前から既に片付けに入っているようだった。流石だね、乾…。
「じゃあ、乾。私も菊丸と教室へ戻るね」
「あぁ…――そうだ、
 別れを告げて教室を出ようとする私を、乾が何か思い出したように呼び止めた。それに扉の前で足を止めて振り返る。
「何?」
「お前が嫌いなのは、どんな色なんだ?」
 思いがけない疑問に、私は黙って乾を見つめ返した。
 相変わらず分厚いレンズに阻まれて、彼の瞳を見ることは出来なかった。
「…燃えるような赤、かな?――なんてね」
 私はゆっくりと微笑んだ後、悪戯に笑って菊丸と一緒に教室を後にした。多分、それで乾も冗談だと思ったかもしれない。
 そして教室へ戻る途中、菊丸に。
 『今日の部活練習は気をつけて』と一応、忠告しておいた。





 †END†





初出 07/03/23
編集 07/09/22