それは、珍しく が遅れて部活へ向かった日のこと。 何やら男子部のコートが騒がしく、気になってフェンス越しに様子を伺うと、その中心には彼女のよく見知った人物。 なぜ彼がこんな所にいるのかと驚くも直ぐさま溜め息に変え、はその場から踵を返した。 自分が撒いた騒ぎから逃れ、持ってきてしまったボールを通りかかったテニス部員、越前リョーマに投げ渡した後。 切原赤也が帰ろうと青学の校門を出た時、唐突に声をかけられる。 「――切原」 「!」 聞き憶えのある抑揚のない声に振り返ると、そこにいたのは学園を囲む道路側の塀に背を預け、腕を組んで見慣れない制服に身を包んだだった。 「何してんの?アンタ」 自分を見て驚く切原には構わず、いつもの明るい表情を消して尋ねる口調は、普段のに比べて不躾になっている。 恐らくそれは、唯の級友や知人と呼ぶ者から見たら、不信感さえ与えかねない無感情な眼差し。だがそんな彼女に慣れてしまっている切原は怯むことなく、無邪気な笑顔で困ったように頭を掻きながら説明をする。 「いやァそれが、バス乗ってたんスけどね。実は途中で寝ちゃったんスよー。んで、ムリヤリ起こされて降りてみたら、偶然にもこんな所まで来てて」 「だからって、わざわざ校内に入ってテニス部へ行く必要なんてないわよね」 しかしは毅然とした態度に見透かしたような視線で、切原に歩み寄りながら指摘する。それに、彼は少し驚いて答えない。 実際に目撃していたからがそう言えるのは当然だが、例え知らなくても切原の性格や行動パターンを考えれば大抵、推測は出来る。それ程に、二人の付き合いは浅いものではない。 「どうせアンタのことだから、手塚にでも勝負挑みに行ったんじゃないの?」 「ヘヘッ流石は先輩!…でも驚いたなー。何も言わないで突然いなくなったから、一体どうしたのかと思ってましたけど。まさか青学に転校してたとはねー。あ、その制服似合ってますよ」 ニコニコと笑う切原に、は相変わらずな後輩に苦笑していたかと思うと、こちらに来てまだ誰にも見せていない、恐怖を感じさせる程に底冷えする冷徹な視線を切原に向けた。 「易い演技してるんじゃないわよ」 高くも低くもない声は鋭さを帯び、空気さえも撥ね退けるようだった。 その対応に切原は瞬きしてから俯き、クッと喉を鳴らした後、不敵な笑みで顔を上げた。 「いやホント、てっきりどこかでくたばっちまったのかと思ってましたよ、先輩」 喧嘩を売っている台詞に酷薄な表情を浮かべる切原は、まだが立海にいた時と全く変わっていなかった。それが彼女には少し嬉しかった反面、もう懐かしくなっていることに違和感を憶える。 「それは残念でした」 しかしそれは隠したまま、は目を伏せて嘲笑うように切原へ返した。 その大人びた口調は中学生と呼ぶには落ち着いていて、普段の彼女とは余りに違っていた。だがこれが、本来ともいえるの姿だ。 普段の人懐っこい笑顔や明るい仕草が、全て演技という訳ではない。多少なりとも臨機応変に使い分けてはいるだろうが、無邪気なも彼女の一部であって、根底にある狡猾さは幼い頃から身に染みたモノだった。 ……そしてそれは、付き合いの長い者や彼女が信頼している者達の前以外では、滅多に見せることのないの素顔――例えば、ここにいる切原を含めた立海男子テニス部のレギュラー達以外には。 「それで、何でまた先輩は俺を待っててくれたんスか?」 単なる挨拶目的で、自分を待ち伏せするような人ではないことは、切原もよく知っていた。だから両手をズボンのポケットに入れたまま、興味有りげに尋ねる。 「…クギを刺しに来たのよ」 は半眼で答えながら身体ごと向き直り、歩き出して彼の横を通り過ぎる。 「アンタがどこで何しようと勝手だし、そっちにいた時は大目に見てたけど。生憎、今の私は青学のテニス部員でね。男子部の人達にはお世話になってるの。だからもし、彼らに危害なんて加えたりしたら」 そこで言葉と共に足を止め、切原へ振り返る。 「――私が、許さないから」 瞳に揺るぎない強い決意を湛えながら、その声は澄んだように、耳へと響いた。 が言っているのは、切原が他校の生徒にテニスの勝負を挑むこと。けれどそれなら危惧する必要はないと思われるだろうが、それが切原となれば話は違ってくる。 彼の性質やプレースタイルを熟知しているからこそ、は青学のメンバーには余り戦って欲しくないと思うのだ。 ……こんなの、自分勝手よね。 冷然とした表情は崩さず内心で呟くに、切原はまた愉しそうに笑う。 はっきりいって、のテニスの実力や才能は相当なもので、女子中学テニス界でも全国区クラスだ。切原でさえ、まだ彼女の本当の強さを計り知れてはいない程に。 それに表面上では愛想よく接していても、警戒心の強いにここまで言わせる青学テニス部に、これまで以上に好奇心が湧いた。 「ヘェ〜、随分とヤツらに入れ込んでるみたいっスね。…だったら、先輩が相手して下さいよ」 「……私?」 「もうウチの生徒じゃないなら、潰しちゃってもイイってことっスよね?どっちが強いか、今から白黒つけましょーや」 だがそれ以前に切原が更に闘争心に煽られるのは、目前に立つ、転校前まで立海女子テニス部のトップにいただ。 「アンタが私とやって、一度でも勝てたことなんてあったかしら?」 その待ち望んでいたかのような挑戦的な笑みに、も劣らない程の見下した表情で慣れたように腰へ片手を置き、切原に吐き捨てる。しかし彼は珍しく呆れた表情で肩を竦めた。 「よく言う。そんなのは、まともに試合してから言って下さいよ。俺と先輩が勝負しても、いっつも真田先輩に止められて、最後までやったコトなんて無いじゃないっスか」 少し苛立ち気味の切原が言う通り。と切原は、彼が入部してから一度も試合を最後までやり遂げたことがなかった。 二人に勝負したい意志はあるのだが、いつも副部長である真田弦一郎に強制的に止められていた。 他のメンバーはそうでもなかったが、真田だけは許してくれなかった。 確かに女子が切原の相手をするには、彼のテニスは余りにも危険過ぎていた。それが強い相手で、試合が長引けばその危険度は増す。が相手ではそうなるの確率は高かったが、何より真田が彼女に何かあると必要以上に騒ぎ立てるような奴だった。 「ま、私ってば愛されてるから」 「せめて好かれてるとか言っといた方がいいっスよ」 そんなコトもあったな、と脳裏で思い出しながら誇らしげに言うに、間髪入れずに切原が真顔でツっ込む。 彼女のこういう性格は嫌いではなかったが、このままではのペースになってしまう予感がして、切原は無理やり話を戻す。 「とにかくっ先輩との勝負はまだついてないんスからね…――あの日から」 睨むような切原の言葉は、最後だけ強調されていた。 それには顔を歪ませたが、吹いてきた横風のせいで黒い髪に隠れてしまい、切原からは見えなかった。 ――『ゴメン』、と。 言いそうになったは、それでも声にすることはなかった。 元を辿れば最初に試合を止めたのも、それによって真田が彼との試合だけ止めてしまうようになったのも、全て自分のせいだ。 だからは切原の望みを叶えてあげたかった。けどそれは出来ない――少なくとも、今日のところは。 「……悪いけど、遠慮しとくわ。これから部活なの」 「逃げるんスか?」 無意識に俯いていた顔を上げ、は社交的な笑みで告げた。だがそれであっさり引く筈もない切原は、挑発的な視線と台詞を向ける。その予想通りの反応に、は切原から目を逸らしながら溜め息を吐く。 そしてなぜか制服のポケットから携帯電話を取り出し、どこかへとかけ始めた。 「……?」 の行動に切原が首を傾げて眺めていると、コール音が止まりが口を開く。 「あ、もしもし真田?うん。私」 「ッ!!?」 普通に電話をかけている相手の名を聞き、切原は余りの驚きに声も出なかった。 よりによって彼がテニス部で一番恐れている先輩だ。なぜそんな人に、は電話などしているのだろうか。 「あのさ、今・こっちに切原が来てるんだけど…あぁ知ってたのね……いや、それは大丈夫――て、逃げんなコラv」 ソロソロとこの場から去ろうとする切原を、が電話をしながら笑顔で彼の襟首をひっ捕まえる。そのまま逃げる隙を与えずに、素早く彼の首に腕を回して拘束した。 「うん。取り敢えず、大きな騒ぎは起こしてないみたいよ……あはは、しょうがないよねぇ。あ、替わる?」 愉しそうに話すの下で、あと少しで絞られそうな切原が抵抗を諦めて項垂れている。端から見たら奇妙な光景だ。 そんな切原にがいつもの無邪気な笑顔で、ハイっと携帯を差し出す。不本意ながらもそれを恐る恐る受け取り、上擦る声で電話に出た。 「も…もしもし?」 『お前は一体何をやっとるんだ!! 早く戻って来いと言ってあった筈だろうっ。また後先考えずに走りおって!おまけににまで迷惑をかけて、判っているのだろうな!?』 「あああはいぃ!スミマセン反省してますってゴメンナサイー!!」 最早、耳に携帯をつけていられない程の声量で怒鳴ってくる真田に、電話越しにも拘わらず謝る切原。 そんな相変わらずな彼らに、は笑いを堪えるのに必死だった。 こんなに怒られても切原はまたやっちゃうんだから、まったく学習能力のないヤツよねー。 そう思いながら怯えている切原から携帯を返して貰い、電話を替わる。立っていると違って、切原はまだショックなのか地面にしゃがみ込んだままだ。 「――そうだけどさ。まァ、許してあげてよ。私も久々に会えて嬉しかったし、ね?……うん。もうすぐバスが来る筈だから、それに乗せるわ。あーちょっと待ってて」 一通り真田と話した後、が振り向くのと同時に切原は不機嫌に不平を漏らす。 「…卑怯っスよ。真田先輩に告げ口するなんて」 先刻までの威勢はどこへやら。すっかり沈んでしまっている切原に、携帯を持つ右腕を下ろしながらが心外とばかりに、ハッと鼻で笑う。 「何ソレ?私はアンタが部活をサボって、青学に喧嘩を押し売りに行った挙句、騒ぎを起こした上にあまつさえこの私にまで挑んで、通常はいつもの7倍の練習をしなければならなくなった愚かな後輩の罰を、2.5倍に抑えてあげたんじゃない。感謝はされても、文句を言われる筋合いはないわ」 他人の為だと言っていても、突き放したように冷淡な瞳で主導権を一気に奪ってしまうようなは、周りに吹く風さえも我が物にしているような錯覚を憶える。慣れている切原も、その気迫に怯んでしまうことがあった。 双方が譲らないといった雰囲気で睨み合っていると、側の路地の向こうから姿を現したのは、大型車特有のクラクションを鳴らして青春台駅へと向かうバス。 「あ、バス来た。ホラ、いつまでもイジけてないで立つ!」 未だにしゃがんでいる切原の腕を掴んで、は強引に彼を立たせる。 それに従って立ち上がるが、結局は彼女に流されているのが余程腑に落ちないのだろう。切原は最後の抵抗として、腕を放すに強気な笑みで言い放つ。 「そんなに俺と勝負するの、恐いんスか…?」 からすればただの強がりにしか思えない切原に、目を見開いて顔に両手を当ててからわざと怯えるように返す。 「うん恐い。だって君、すぐ充血するじゃん。もう恐い通り過ぎてなんていうの、キモイ」 「ヒドっ!!」 真顔で告げられた暴言に、切原は本気でショックを受ける。真田に全力で怒鳴られるより精神的なダメージは大きかった。 しかしはそんな打ち拉がれている切原には構わず、表情を薄笑いに変え彼を見据える。 「…それに、君如きに恐れ逃げる程、私は落ちぶれちゃいないわ」 年齢に不相応な微笑みで言うの言葉と共に、対面する二人の横をバスが通過して時刻表の手前で停車した。 それでも動こうとしない切原に、が行っちゃうよ、と追い払うように促す。 後ろ髪を引かれながらも、これ以上ここにいてもの意志は変わらないどころか、自分の首を絞めることになると思った切原は、諦めて彼女に背を向けた。 「切原」 けれど丁度バスに乗り込もうとした時、先程と違う柔らかな声で呼び止められる。 振り返ると、少し離れたところでが微笑っていた。 「気をつけてね」 それは何の毒もなく、胸が締めつけられそうな程、綺麗で穏やかな笑顔。 切原にとって最も苦手としているの笑顔だった。 そのことを彼女本人は気付いていないし、無意識に出た表情だったのだろうが、思わずバスに乗ることを逡巡してしまう。けれど、だからといって引き返すのも変だと自分に言い聞かせ、切原は急いでバスへと乗り込んだ。 |