職員室に向かい、遅れたことを担任になる教師から軽く注意されながらが案内されたのは、三年六組の教室だった。
 が教師の後に続いて教室に入ると、転校生が珍しいのだろう。生徒達からざわめきが起き、この反応はどこに行っても同じだな、とはぼんやり思う。
「遅くなったが、転校生を紹介する。神奈川から転校してきた さんだ」
「宜しくお願いしまーす」
 担任からの紹介後に、は一礼する。
 するとクラスから拍手を受け、割と歓迎的な雰囲気に少し驚きながらもそれは隠して無邪気な笑顔を見せた。
は過去にも何度か転校を繰り返していて、家庭の事情で今回は急な転校だそうだが、クラスメイトになるんだから仲良くな」
 少し軽薄そうな印象を受ける教師に、端々から"はーい"と返事があがる。
 それを聞いて、担任はに振り向いた。
「お前から何か言っておきたいことあるか?」
「いえ、特に無いです。何だったら質問して貰ってもイイですよ」
 教師に答えながら、は生徒達へ呼びかけるように振り向いた。それに挙手して立ち上がったのは窓際に座っていた一人の男子生徒。
「ホイホーイッ。趣味は何ですかー?」
 教室に響き渡る声で質問するのは、外ハネの髪型で右頬に絆創膏を付けたとても明るそうな少年だ。
「趣味…というか、特技もかねてテニス、かな」
「ヘェー!じゃあさ、前の学校でテニス部だったとか?」
「うん」
 教壇にいると後ろから二列目の席にいる少年の、距離のある二人の会話をの横にいる教師が呆れ気味に割って入る。
「オーイお前等、個人的な話は後にしとけー」
「ありゃ?」
 教師が尚も質問しようとする少年を注意したことで彼は頭を掻きながら惚けてみせ、生徒達から笑いが起きる。
 そんな彼等を見て、仲の良さそうなクラスの印象には心の中で少し安堵した。
 元々、転校に慣れている彼女に緊張や不安などはなかったが、多少なりともクラス内の人間関係は気になるところだ。それによっては、自分の身を置く位置というのを見定めなければならないのだから。
の席は不二の隣り…あの空いてる席だ」
「はい」
 教師が指したのは、先程の質問をした少年の左斜め後ろの空いた席。はそれを確認して歩き出す。
 が席に向かっている時、彼女の隣りになる不二という少年が、小声で前に座る生徒に話しかけていた。
「ねぇ英二。あの子、どこかで見たことないかな?」
 英二と呼ばれたその少年は、椅子を後ろへ傾けながらの顔を改めて見るけど首を傾げるだけだった。
「へ?…うんにゃ。初めて見るけど、不二は見憶えアリ?」
「あぁ、いや。見たと言うか……」
 訊き返された不二は、前に屈めていた上体を起こしながら少し歯切れが悪い。
 なぜか判らないが、不二にはが初対面に思えなかった。けれどそれは感覚の域だったので、確証がない。
 ただ言えるとすれば、どこかで聞いた名前だということ。
 不二が顔を上げると、席に着こうとしていると目が合った。彼女は座りながら笑顔を向ける。
「宜しくね。えっと、不二君?だったよね」
「うん。不二周助っていうんだ、宜しく」
 に向けて、不二も負けない程に端正な顔立ちに人当たりの良い笑顔を浮かべて答える。
「俺は菊丸英二!ヨロシクな。俺も不二もテニス部なんだよ〜」
 そして今度は斜め前にも拘わらず、クラスで最初に言葉を交わした菊丸と名乗る少年が、身体ごと振り返って満面の笑顔で自己紹介をする。
「そうなんだ」
「英二。忘れてるかもしれないけど、授業中。ホラ、前向かないと」
「ちぇ」
 そんな菊丸に慣れているのか、不二が穏やかに注意したことで彼は渋々と椅子を戻して前を向く。
 二人のやり取りに、いつもこんな調子なんだろうな、とは思わずクスっと微笑った。
 隣りでその笑顔を見ていた不二には、なぜかそれが彼女の自然な、本当の笑顔に思えていた。















 時刻は正午を過ぎ、学園全体が生徒達の活気で満ち溢れる頃。
「んで、ココが購買部〜!」
 は昼休みを利用して、親しくなった不二と菊丸の二人に校内を案内して貰っていた。
「これで大体は回ったかな。ココ、結構広いからまだ判らないかもしれないけど、細かいことはこれから憶えていけばいいよ。困ったら僕達に訊いて」
「そうそう。いつでも助けてあげちゃうよん♪」
 静謐な不二に天真爛漫そうな菊丸の、一見対照的な二人だが、それが返って絶妙な雰囲気を醸し出していた。
 最初はそれを新鮮に感じていたも、既に慣れてきている。
「ありがとう。わざわざゴメンね?折角の昼休みに、案内なんてさせちゃって」
 廊下を自分達の教室へ向かいながら、は並んで歩く二人に話しかけた。
「構わないよ。それに、僕等から言い出したことだし」
「不二の言う通り。こんなのへへへのカッパだって」
 そう言ってくれる二人に、は笑顔でもう一度ありがとう、と伝えた。
 前にも何度か他の学校で案内して貰ったことはあるが、彼等の場合、親切というより根が良い人達だからこういうことも気軽に出来てしまうのだろう。
 三人が話をしながら階段に続く曲がり角に差しかかった時、の視界にフッと人影が過ったかと思った瞬間。
「――うぉッ!?」
「きゃっ」
 突然とび出してきた男子生徒と、は正面衝突してしまった。
 その反動で女子の中でも小柄な彼女は転びそうになるが、後ろにいた不二がしっかりと受け止めてくれたのでそれは免れる。
「大丈夫?さん」
「うん…平気。ありがと不二君」
 体勢を立て直しながらがブツかった少年を見上げると、不二が後ろから彼に声をかける。
「前方不注意だよ、桃」
 とブツかった辺りが痛むのか、目前の少年は俯いて胸を擦りながら慌てて謝る。
「すみませんっ。急いでたもんスから…って、不二先輩?英二先輩も……」
 恐らく反射的に敬語で言いながら顔を上げる彼は、そこで前に立つ人物達に気付き、真ん中にいるを見て目を丸くした。
 それに彼女が首を傾げていると、今度は菊丸が注意する。
「廊下は走っちゃダメなんだぞ〜桃。に謝れ」
「あぁ!そうでした。ホントすみませんでした!」
「いいよ。何ともなかったから大丈夫。えと…菊丸君達の後輩?」
 勢いよく頭を下げる彼に笑顔で返して尋ねた。
「あ、コイツはテニス部の後輩で二年の桃城 武。そんで桃、こっちが転校生で同じクラスの だよ」
「どうも…」
 菊丸が二人の間で簡単な紹介をすると、桃城が腕を後ろ頭に回しながら少し控えめに挨拶をした。
 それを照れと見た菊丸は、ここぞとばかりに彼をからかいに入る。
「あれ〜?桃、顔が赤いゾー?もしかして一目惚れとか?」
 意地悪そうな表情で詰め寄る菊丸に、桃城は大袈裟にたじろいだ。
「なっ…何言ってんスか先輩!そんなんじゃないスよ」
「ホントかにゃ〜?慌ててるトコ見ると、ますます怪しいー」
 上下の差がモロに出ている二人の口論に、と不二はただ事の成り行きを眺めていた。
 けれどこれも不二が止め役になっているのだろう、とが横にいる柔和な笑顔を絶やさない不二を振り向くと、気付いた彼がどこか黒いモノを感じさせる笑みを深めて無造作にの肩に手を置いて、引き寄せたかと思ったら。
「駄目だよ二人共。さんは僕の彼女なんだから」
 と、ケロリとした口調で言ったのだ。
「「えぇ―――ッ!!?」」
 そして当然ながら、先刻まで言い合っていた菊丸と桃城が辺りに響き渡る程の驚愕を、息ぴったりにあげた。
「マジっスか先輩ッ!?」
「ズルイぞ不二!いつの間にィー」
 何か好き勝手に騒いでいる二人には取り合わず、は隣りに立つ不二を上目遣いで見つめる。
「…からかってるでしょ?」
「桃達の方をね」
 既にから手を離していた不二の言葉に、彼女は疑いの目を向けながら彼等と関わったことをほんの少しだが後悔した。
 しかし性格や経験上、こういうことに順応が早いの頭からは後悔など数秒後には消えてしまうのだった。
 不二の彼女にされてしまったことで騒いでいる菊丸や桃城のせいで、周囲の生徒の注目を浴びてしまっている状況を打開するには二人に嘘だと言うしかない、とは一歩前へ出る。
 その状況を招いた張本人である不二はというと、まるで傍観者状態だ。
「えーと、桃城君?に菊丸君も。さっきのは不二君の冗談。私はまだ独り身だよ。それに今日転校してきたばっかなんだから、ちょっと無理あるでしょ?」
 少し困ったような笑みで説明するの言葉を聞いて、二人が目を丸くした後。
「あ、そーなんスか…」
「なぁんだ。つまんないのー」
 桃城はどこか安心したような気の抜けた返事をした。それには大して気には留めなかったが、菊丸の残念そうな反応に一体何を期待していたんだ、と思う。
「僕はさんが彼女でも、全然構わないけどね」
「そーいう蒸し返すコト言わないの」
 また騒ぎを呼びかねないことを口にする不二に、が溜め息混じりに抑止する。
「邪魔だ。退け」
 その時、唐突に低音の怒気を帯びた声が桃城の背後から聞こえた。
「うわっマムシ!」
 真後ろからの声にとび上がるように振り返って驚く桃城に、そこにいたツリ目の恐い印象を受ける少年が更に怒気を深めて言い放った。
「その名で呼ぶんじゃねぇ…っ。早くそこを退け」
「何だと?」
「いいから退けッつってんだよ」
 今にも掴み合いの喧嘩になりそうな二人に、は困惑するばかりだ。
 だが考えてみれば廊下に四人、しかもその中央で立ち話なんてしていれば通行の妨げになり彼でなくても怒るのは当然だろう。
 しかし、両脇にいる不二と菊丸に止めに入る様子はなく。これも慣れているのか、と思いながらは不二に振り向く。
「マムシって…?」
 不思議そうに訊く彼女に不二が思い出したように答えた。
「あぁ、彼は海堂 薫。桃と同じ二年で彼もテニス部だよ。因みにマムシっていうのは、彼のプレイスタイルや試合に対する執念さからそう呼ばれてるんだ」
「ただ単にヘビに似てるだけなんスよ、コイツは」
「フシュウゥゥ……もう一回言ってみろ…」
「二人共、その辺にしとけばぁ?も困ってるゾ」
 一触即発な二人に、菊丸もやっと止めに入る。それに不満がりながらも桃城と海堂はお互いに顔を背けた。正に犬猿の仲である。
「へぇーそうなんだ」
 菊丸が気にかけていたは、不二の紹介を聞いて納得しながら表情を明るいモノへと変えていた。
 それを見た不二は、彼女にとって"テニス"というものは、本当の意味で他人に興味をもつ為の最大の要素なのかもしれない、とぼんやり考えていた。人懐っこく見えても、にはどこかよそよそしさを不二は感じていた。
「でも、マムシより名前の方が似合ってるよ海堂君。私はそっちの方が好きだなー」
「………っ」
 は険悪だった二人の空気を、和ませる程の笑顔を海堂に向けた。
 そんなことを言われるのは初めてなのか、彼は答えることが出来ずに言葉を詰まらせてしまう。その二人に何か焦りを感じたらしい桃城が、前に乗り出すようにへ詰め寄った。
「先輩!俺はッ?俺の名前は!?」
「うん。普通だね」
 しかし彼女はのほほんとした様子で、ある意味意地悪な答えに桃城はショックを受けて、落ち込むように廊下の端に縮こまる。
 この時点で、彼はの中で苛められキャラだとインプットされた。
「じゃあ…授業始まるんで、俺はこれで……」
 それまで何をする訳でもなく佇んでいた海堂が、我に返って逃げるようにその場を後にする。その後ろ姿を見送りながらは首を傾げた。
「どうしたんだろ?…もしかして、気にしてたのかな?」
「いや、そんな風には見えなかったけど」
 不思議そうに尋ねるに、不二は苦笑気味に答えた。
 彼女には判らなかったらしいが、恐らく海堂は照れていたんだと不二は確信していた。あんな動揺をしている海堂を見るのは、彼も初めてだったのだ。
 そんな二人と離れ、菊丸は未だに廊下の端でいじけている桃城の傍へと歩み寄る。
「それよか桃ー。お前、急いでどっか行こうとしてたんじゃないの?」
 身を屈めて訊かれた菊丸の言葉に、桃城は勢いよく立ち上がった。
「そうだ忘れてた!購買部に行く筈だったー!!」
 半分頭を抱えて叫ぶ彼に、不二が思い出したように言った。
「でも、もう昼休み終わっちゃうよ桃」
「ヤッベー急がないと、焼そばパン買い損ねる!」
 けれどそれが聞こえていないのか、慌てる彼に菊丸が軽い口調で尋ねる。
「ナニ?昼飯食べてない訳〜?」
「バッチリ食べましたけど、あんなんじゃ足りないんスよっ。部活前に食べる分も買わないと…!んじゃ、俺はこれで失礼します!!」
 言い終わる前に、桃城は注意されたばかりで全速力でその場を走り去って行った。それを呆然と見送る三人。
「げ、元気だね…」
 明るく言いながらの顔は引き攣っていた。それに一早く反応したのは不二だったが、何事もなかったように爽やかな微笑を彼女に向ける。
「さ、僕達も教室に戻ろうか。急がないと授業に遅れちゃう」
「うん…」
 歩き出した三人は少し足早に自分達の教室へと向かう。
 その途中で、菊丸が思い付いて明るい表情で提案した。
「そだ、。折角だから放課後、俺達のテニス部にも案内してやるよ!なっ不二」
 より前を歩きながら、彼は振り返って不二に同意を求める。それには目を丸くして訊き返した。
「…ホント?」
 期待や迷いが交じるの問いに、不二は拒否しなかったが菊丸は肝心なことを忘れている。
「それはいいけど、英二。僕達は男子部だよ?彼女を案内するなら女子部に連れていかないと」
「あーそっか」
 指摘され、気付いた菊丸はどこか残念そうに頷いた。
 そんな彼に気遣ってか、はフォローするように菊丸の提案に答える。その表情はどこか嬉しそうだった。
「いいよ、男子部の方でも。菊丸君達の部活がどんなトコか、見てみたいし。それに……」
 笑顔で言うは、そこで言葉を切って少しだけ俯く。

 ――どうせ、挨拶に行くつもりだったから。

 そう呟いた言葉が、声になって両隣りにいた不二と菊丸の耳に届くことはなかった。