春を運んだ桜が散り、青々とした木の葉が風に揺れる五月。
 そんな中で長い髪が乱れるのも気にせず、校門から昇降口へ続く道に少女が一人、佇んでいた。
「ここが、青春学園…」
 呟く少女── が校舎を仰ぐ表情はどこか愉しそうで、瞳にはこれから冒険にでも出るような決意が宿っていた。
 だがそれも校舎の壁にかけられた時計を目にしたことで曇ってしまう。
 時刻はまだ朝と呼べる時間帯だったが、周りに生徒の姿はなくのみ。更にいえば、生徒達は授業を受けている時間だ。

 あーぁ。転校初日に遅刻か、目立つだろうなー…。

 頭を掻きながらボヤいているが焦る様子はなく、周囲を見渡しているあたり堂々としたものだ。肝が据わっているといえば聞こえは良いが、本人は神経が図太いのだと自覚していた。
 今から行くのも目立つと思い、は授業終了までの時間を潰すことにした。
 とはいえ転校生の彼女がこの学園の地理を知っている筈もなく、どうするか考えていた時。
 敷地内にある木の陰から人の髪らしき物が、風に揺れているのを見つけた。
「…?」
 興味を引かれ、近付いて前へ回り込んでみると、そこには木に凭れて坐っている男子生徒がいたのだが。

 寝てる…。

 その少年は艶やかな黒髪を風に揺らし、無防備にも寝ていたのだ。
 大胆な子と思いながら、は身を屈めて割と整った可愛いと呼べる少年を見つめる。
 起こさぬようにしていたけど少年は不意に目を覚ましてしまった。
「ン…」
 間近で見ていて、しまったと思ったがは身を引くタイミングを逃して少し慌てたけれど。
「……誰?アンタ」
 まだ寝呆けているせいなのか、余りに普通な反応に思わずガクっと身を崩す。
「もっと他に言うことないかなー?驚くとかさ」
「別に…そっちこそ、人の寝顔覗くなんてシュミ悪いんじゃない?」
 気を取り直して言うに、欠伸をしながら見上げる彼は先刻まで寝ていた時の印象と違い、表情や口調からも"生意気"という言葉がよく似合う少年だった。
「君がこんな所でサボって寝てるのが悪いんだよ」
 痛いところを突かれ、内心で反省しながらも言い返す。こんな屋外で寝ていたりすれば人目を引くのは当然だろう。
「え…今何時?」
 その言葉に少年は動きを止めて彼女を仰いで訊く。
「9時、過ぎてるけど」
 が腕時計を見て答えると、彼は顔を引き攣らせた。
「ヤバ…寝過ごした」
「え?サボリじゃなかったの?」
「いや、あんまり眠かったから朝練の後、授業始まるまで寝てようと思ったんだけど…」
「過ぎてるネー」
 立ち上がりながら寝ていた理由を話す彼にツっ込むけど意を介さず、少年は置いてあった鞄を掴んで肩にかける。
 それを見て、はふと思い訊いてみた。
「朝練って…もしかして君、テニス部?」
 彼の持つ鞄は通学用にしては大きく、テニスをする人が替えのラケットやスポーツ用具を持ち運ぶのに使用するスポーツバックだった。
「…そうだけど」
 彼女の問いに、少年は少し驚きながら肯定した。
 予想が当たりだったことと同族を見つけた嬉しさに、は微かに喜色の表情を浮かべる。
「だったらさ、テニス部のコート案内してくれないかな?私もね、テニスしてるんだ」
 その言葉にまるで他人に無関心な態度だった少年は、校舎へ向かう足を止め、に振り向く。
「へぇ……アンタ、転校生ってヤツ?」
「まーそんなトコだよ。で、案内してくれる?」
 は人懐っこい笑顔でもう一度訊いてみたが。
「ヤダ」
 まるで、幼い子供のような一言で断られてしまう。

 "ヤダ"って……。

「何で俺が…それに、こんな時間にいるってコトは、アンタ遅刻じゃん」
「えーいいじゃない。私は遅刻で、君はサボリの共犯者ってコトでさ」
「…理由になってないんだケド?」
 少年は、自分の言葉にどこ吹く風な明るいに呆れ気味だ。
 そんな彼を己のペースにもち込むかのように、は少年の腕を掴んで歩き出した。
「気にしない・気にしない。これも何かの縁だし、どうせ今から授業に出るつもりないんでしょ?ホラ、行こっ」
「え?ちょっ、待っ…」
 こうして少年は己の意思に関係なく、無理やりをテニス部のコートへ案内することになった。















「へぇ、ここがコートか…広いねー」
 少年に案内させ、二人が着いたのは男子テニス部のコート。
 はフェンスで囲まれたコートへ入って感嘆の声をあげた。そのはしゃぎように、遠巻きに眺める少年はやはりどこか呆れた様子だ。
「もう気が済んだでしょ。俺は行くから」
 出て行こうとする彼に、は慌てて駆け寄った。
「あー待って。まだ時間あるし、1セット試合していかない?」
「……何で?」
 またも予想外の提案に少年は目を丸くし、返事にも間が開いてしまう。
「折角コートに来たんだから、やっぱテニスしないと。……それとも、女の子に負けるのが恐い?」
「な…」
 やや強引な説得に、はわざと煽るような台詞を取って付ける。そして狙い通り、少年は顔色を変えた。
 恐らくはこの少年の性質が判っているのだろう。そして、そんな人間の扱いにも慣れている。
「言って置くけど、私と勝負出来るなんて光栄なコトなんだから」
「ふぅん……アンタ、強いの?」
 その強気な態度に闘争心を駆られたのか、少年は挑戦的な表情で訊く。
 は口許だけで微笑い、毅然とした瞳で少し背の低い少年を見下ろしたかと思えば。
「知りたい?…――じゃあ、ラケット貸して」
 一瞬で無邪気ともいえる笑顔に戻り、手を差し出した。
 その変化にこの手の人間には慣れていないのだろう。少年は面食らって言われるがまま、にラケットを貸してしまうのだった。
「じゃ、始めよっか。制服のままで大丈夫?」
 軽めの運動後、二人はコートに分かれて向かい合い、が笑顔で尋ねる。
「俺は構わないけど。アンタは?」
「私も平気。前の制服よりは動き易いし、可愛いし……でも、君は上着、脱いでおいた方がいいかもね」
 笑顔で言ってはいるが挑発にしか思えないに、少年は顔を顰めた。
 それに気付いているのか否か、彼女は少年から借りたラケットを逆にして地面に付ける。
「フィッチ?」
 一応試合という形なので、はサーブ権を決めるコールをした。
「いいよ。サーブあげる」
 しかし少年はを少し見上げる視線でサーブ権を譲る。少し驚きながらもは笑顔で答えた。
「 そう?……ありがと。」
 そして、出会って間もない二人の遊びにも似た試合は、の力強いサーブで開始される。
 少年はそれを難なく打ち返し、ラリーが続く。
 観戦者でもいれば普通の試合に見える。細かくいえば、少し速い程度か。
 そんな中で、は少年の動きや打球を見定めていた。それは少年も同じなのだろう。

 へぇー…巧いね――――でも。

 は少年をそう評価して、グリップを握る手に力を込めた。
「ガラ空き」
 呟いた直後。少年を誘い出して空いたスペースへ、の打ったボールが綺麗に決まる。
「!!」
 僅かの隙を突いたその打球に、少年は反応すら出来なかったが、それよりも。

 ――速い…!

 先程までと明らかに違う球速に、少年は決められたボールの跡を見つめた。
 もし今のが予測出来ていてもあの速さに追い付くのは困難かもしれない。
「次、行くよ」
 少年の思考を遮るように、はサーブ位置へと戻って試合を続行する。

 ――打球が、予想以上に速くて、重い。

 甘く見ていた訳ではなく、試合を始めてからがそれなりの経験者であることは少年も判っていた。
 けれど、これといって目立つ攻撃はされていないのに、気付くと翻弄されるようにボールに追い付くだけで手一杯だった。
 それはまるでコーチの指導を受けているようだ、と少年は思った。
 彼女のプレイは基本に忠実だったが、そう判っていても返せないのは、自分の動きが全て読まれているからなのだろうか。
「やったー!私の勝ちっ」
 鮮やかなスマッシュが決まり、の勝利の声がコートに響く。
 結果は1−0のラブゲーム。試合を始めて、五分と経っていない。
 喜ぶ彼女を少年は苦々しく睨んだ。勝敗より、一本も取れなかったのが悔しいのだろう。
「どうする?まだ時間はあるし、続きする?…するんだったら、次は君のサービスだね」
 しかしがそれに怯むことはなく、笑顔を挑戦的な笑みへと変えた。
「…にゃろう」
 その余裕ある態度に、少年は悪態を吐いてベースラインへ踵を返す。倣うように、も彼に背を向けた。
 お互いがネット越しに対峙し、少年がボールを二・三度バウンドさせてサーブ体勢に入る。その瞳は真剣そのものだった。

 本気…だね。

 内で呟き、かけ声と共に放たれた少年のサーブをは待ち構える。
 しかし、何か違和感を憶えなからも打ち返そうとしたボールは、バウンド直後にの顔面へ向かってきたのだ。
「――ぅわ!?」
 考えるより先に身体が動いたは、顔に当たることを免れた。
 スピンのかかったボールは握っていたラケットを弾き、彼女の髪を掠めて、コートには落下音が響く。
「あー危なかったぁ。……面白いサーブを打つね。君、名前は?」
「…越前リョーマ」
 奇襲として放った少年――越前のツイストサーブを目にしても、のペースが崩れることはなく、今知った彼の名を口の中で呟きながらラケットを拾って向き直る。
「へぇ、カッコイイ名前だね。でも女の子の顔に向けて打つなんて、イイ男にはなれないよー?」
 それに越前は答えなかった。
 例え何か反応していてもに聞く気はなく、再び身体を動かしながらラケットを玩んで愉しそうに言う。
「うん。面白くなってきた。続けよっか。またそのサーブ、打ってくれる?」
 テニス特有のステップを踏みながら、は催促する。
 その自信に溢れた表情が癇に触りながらも、越前は再びボールをバウンドさせてツイストサーブを打つ。それを確認したは、越前に判らない程度にこれまで彼に向けることのなかった冷笑を浮かべた。
 そして構えていた位置から身体ごと後退して、跳ね上がるツイストサーブをライジングでいとも簡単に打ち返し、ボールは越前の真横をストレートに抜けていた。
「――ッ!!?」
 凝視して息を吸い込んだまま、越前は吐き出すのを忘れて立ち尽くす。

 打ち返された…っ。

 その事実に、越前は証拠である後方のボールを見ることが出来ず、風とボールが転がる音だけが聴こえた。
 そんな彼をはゆっくりと見据える。
「信じられないって顔してるね。……でも、本当に信じられないのは、これからだよ」
 そう言って、は風の中で微笑った。
 まるで、白い花が咲き開くかのように。
 それは傲慢的でありながら、どこまでも綺麗な微笑み。










 ――その試合を、教室の窓から俯瞰する者がいた。
 銀で縁取った眼鏡の奥の瞳は、だけに向けられている。
 そして、再開される試合を諦観するように見つめていた。

 それは無表情なまでに、冷然とした表情で。










 試合は、二十分と経たない内にの強烈なスマッシュで終わりを告げた。
 勝敗はフルセットでの6−0。
 ――の圧勝である。
「あーよく動いたぁ!君、なかなか強いね。でもまさか左利きだったとは思わなかったよー」
 そう、利き腕でない右手では勝てないと思った越前は、ラケットを左手に持ち替えた。
 だがそれでも流れを変えることは出来ず、は始めと全く違う、本来のプレイスタイルで彼に圧倒的な強さを見せつけたのだ。――まるで、始めの1セットが遊びだったと思わせる程に。
 汗をかく越前とは対照に、はやはり明るい笑顔で感想を述べる。
 それが冗談なのか、それともこれが普段の彼女なのか。越前は、出会った時以上にのことが判らなくなっていた。
 今も試合でも、その笑顔や態度は変わらないのに、コートに立つ姿はまるで別の誰かと入れ替わったような感覚がするのはなぜだろうか。
 彼女を取り巻く雰囲気は一変し、瞳には獲物を狙うかのような鋭さがあった。
 正に、"豹変"という言葉が相応しい。
「……アンタ、何者…?」
 肩で呼吸を繰り返す越前は、握手という意味で手を差し出す目前のを睨み上げた。
 そんな彼には最初と変わらず、風のように微笑む。
「私?――私は 。今日転校してきた、青学の生徒だよ」

 それが、にとって青春学園での最初の試合であり、新しい学園生活の始まりだった。










 波瀾の転校生